ふたり 5

 てっきり風呂場へ向かうものとばかり思っていたが、イルカの予想に反して連れてこられたのは、庭が一望できる程大きな窓のある一室だった。栄養を加えられ健康的な柔らかい土を得た土地にオレンジ色の夕陽が差している。きっと前の荒れた庭だったら、ここからの景色は酷く寂しかっただろう。現在窓の外は男が買い込んだ器具の山で賑やかだ。
 男はズボンだけ穿いた格好で、イルカはシーツの下は全裸といった格好だ。座り込みふるると震えるイルカを膝に乗せると、後ろから抱き込みポツリポツリと語り始めた。
「この家は俺達一家の別荘として父さんが買ったものだった」
 表情は伺えないものの、口調はいつになく穏やかだ。男に一等合っている気がして、イルカはこれが男の本来持つ性質なのだと悟った。
「母さんがガーデニングが好きで、イングリッシュガーデンが作りたかったみたい。でも俺の生家は木の葉の一般的な家屋で似合わなかったから、父さんが母さんの我侭叶えてあげるために探してきたって聞いた。土を弄ってる両親は幸せそうで、俺はしょっちゅう泥だらけで二人の間に飛び込んでいったなぁ」
 相槌は言葉ではなく首の動きで行った。何となく自分の声で話を遮りたくないという思いがイルカの中に広がったからだ。男はゆったりとした語り口調のトーンをほんの僅かに落として語り続ける。
「でも母さん病気で死んじゃった。俺と父さんは二人で庭を造ったけど忙しかったのとセンスがないのとで色合いとか滅茶苦茶になっちゃって、出来上がった庭を見て大泣きして父さんを困らせたよ」
 息だけで笑う男は、「死」という言葉を搾り出す時だけ声を震わせる。任務で幾百、幾千もの修羅場を乗り越えてきても塗り潰せない感情があるのだと言外に告げているようで胸が苦しくなり、イルカはそっと男に寄り掛かる力を強めた。
「それでも楽しかった。父さんは何でも出来る人だったけど芸術センスはまるでなくて、それをとても恥ずかしがってた。それでも庭を造り続けてくれたのは俺のためだったんだろうねぇ」
 男もイルカをついと引き寄せ、再び穏やかに語りを再開した。無理をしないで、と瞳で囁くイルカに男は大丈夫だと頷き返し、イルカに聞いてほしいからと懐古を続ける。
「父さんは忍びで、詳しくは言えないけど任務で心を病んで自殺したの。あれは生家の方だった。俺はその家に帰るのが嫌でこっちにばかり居つくようになった。だけど」
 男は言葉を切り、首を窓に向けた。イルカには幼い男がこの大窓からの景色に絶望する姿が手に取るように感じられた。母を亡くし父を亡くしたのは九尾後のイルカも同じだが、境遇がまるで違う。これ程の豪邸を買える程の実力を持った忍びが自ら命を絶つとは余程のことがあったに違いない。それは幼い男の中心に一本の大きな傷を残したはずだ。きっと小さな手をした男はカーテンを買うか、この部屋の鍵を閉じたかをした。それを思うと幼い頃の自分と重なって思えてイルカはしゅんと力を落とした。
「庭が、そりゃあもう酷い有様で。幸せだった頃の景色が全部ない。植物を引っこ抜いた跡も燃やした跡もあったよ。父を糾弾した奴等の仕業だった」
 悔しかったし悲しかったなぁ、と遠い日の記憶を語る男は不思議な程淡々としていた。何度虚空に怒りをぶつけたらかけがえのないものを奪われた恨みは昇華できるのだろう。
「だから俺はこの家に誰も近づけないように、任務をこなして山ごと購入した。それで合間に研究を重ねて常に一番強固な結界と幻術を仕掛けてね。幼い手で人を殺めてお金を稼ぎ、この家に残った思い出を守ろうとしたんだ。今思えば余計引きこもるだけだったんだけど、それが俺に出来る唯一のことだと考えてた。勉強してどんどん自分の殻に篭って、心を殺して。それである晩いつもみたいに幻術を強化するために境目となる地点に行ったらね、普段と違う印があった」
 そこで男が胸を上下させた。てっきり泣いてしまったのかと思ったが大きな間違いだった。男は堪え切れないとばかりにくすくすと笑っているのだった。
「あはは、ごめん。あのね、歪んだ豆腐みたいなのの絵の周りに星と、それにアメーバが散りばめてあってさ、変なバナナの横には『うみのイルカさんじょう』って。その文字でそのバナナがイルカだって分かった。背鰭と尾鰭があったし」
 歪んだ豆腐、星にアメーバにバナナみたいなイルカ。豆腐は洋館でアメーバは花だ。
「あれは花と、こ、この家だ!」
「今は分かってるって。それで、馬鹿らしくなってふと空を見上げたら星が一杯だってことに久し振りに気づいたの。衝撃的だったよ。あんな子供の落書きでってのが腹立って仕方なかったけど」
 仕方なかったけどね、その時ちょっと人間に戻れて嬉しかったよと男はもごもごと、イルカの首筋に鼻を埋めながら言った。剥き出しの肩に顎を乗せふぅと息を吐く。男に体を作り変えられたせいで敏感になったイルカ自身は少々兆したので、もじもじと膝を閉じて隠した。男が察して少々体を離してくれたことにホッとする。
「それ以来かな、『うみのイルカ』が俺の中に棲みついたのは」
「あれだけで!?」
「信じられないだろうけど。アカデミー生だったよね、まだ。普通の子供してるイルカにイラついたけど目が離せなかった。いつの間にか、俺にとっての里はイルカになってた。九尾の事件後一人で泣いてるイルカの隣に立てない自分が情けなくて無理に任務に励んだり」
 男の語る内容は片想いの告白ように聞こえる。男が性的な対象としてイルカを見ているのは理解していても、こうも赤裸々だとどんな顔をして聞けば良いのか対応に困る。イルカが曖昧に笑うと男は突如しゅんとうな垂れた。
「あのさ……この間、子供とイルカをここに招き入れたのはワザとなんだ」
 ああやっぱり。イルカは無意識に唾を飲み込んだ。
 薄々予想はしていたことだ。余りにもできすぎていたから。きっと男はイルカが怪我をしてアカデミーの手伝いをしていたことも把握していたのだろう。
「薄暗い任務の連続で荒んでたのもあるけど、ちょうど上層部に貸しを作った所だったから乗じてしまった。とんでもないことをしてるってすぐに止めようとしたけど止まらなくて。イルカが恨んでくれればと願ってたのに許してるし、庭造るって言い出して俺の過去抉ろうとするし……いや、言い訳だね。イルカは何も知らずにここに連れて来られただけだ。俺は多分ずっとイルカに俺と同じ闇の深い所まで堕ちて欲しかったんだ。でもさっきイルカが肯定してくれて、全部馬鹿な真似だって理解した。ほんと、本当に馬鹿で……思いが通じようが通じまいが、一言『好き』って言えれば良かっただけなのに」
 イルカの腹部に乗せられただけだった男の大きな手が白く色を変えた。男はイルカを腕で縛る代わりに、自分の手首を圧迫してやり場のない怒りをぶつけている。このまま圧し折ってしまいそうな気配さえ漂う。男の呼吸も微かであるが荒く、不規則だ。
 イルカは白く冷たい雪のようになった指先を確認して、突如全てを納得した。この人は感情を時間で薄めることしか知らない。だから突発的な感情のざわめきを、イルカを抱いたり自らを傷つけたりすることで平静に戻そうとしているのだと。男の行動は、不器用、それだけが理由だ。
 どれだけの間一人でそうしてきたのだろう。どれだけ幼い頃から――――。
 胸にせり上がる名伏し難い気持ちに従じて、イルカはすっかり色をなくした指先をそっと両の掌で覆った。
「貴方のしたことは許せない」
 反射的に男が爪を己の手首に食い込ませようとする。それをイルカは撫でて諌めた。
「でもオレの中に貴方が残って、されたこと忘れたいのに離れなくて仕方がない」
 ただ男がこれ以上自分を壊さないように。
「ここに辿り着いた時、長年追い求めてた割に寂しい場所だと思った。貴方も、早い段階から寂しい人だと思ってる。だって貴方はオレを求めるのに、その癖オレを見ない」
 これ以上自分を殺さなくて済むように。
「それを切なく思った時点で、どうしてだかオレは……貴方に、恋をしていたの、かも」
 心が下した決断はいつもの過剰な感情移入のせいだろうか。火影に窘められた悪癖を思い出す。だが、否、今のイルカにとって既に理由などどうだって良かった。
 男がパッと痛めつけていた手を離し、イルカの体を持ち上げ膝の上で反転させた。二人が向かい合う体勢になる。不安と期待が綯交ぜになった表情。このまま全て受け入れても構わないとイルカは思った。けれど恐らく、このまま何もなかったことにして関係を継続したとしても男はずっと二人の『始まり』を悔い続けてしまうだろう。『二人』が覚えている限りそれは消えない。だから。
「なあ、やり直そう」
 ここまでで一旦ピリオドを打つことを提案した。新たな書き出しのために。
「本当は貴方の記憶を消しても良いけど、一介の中忍のオレでは探し出せないかもしれない。こっち素性を知っているようだし本当に悪いと思っているならこの生活の記憶を消して欲しい。貴方がした酷いこともオレが貴方に恋をしてしまったことも忘れさせて欲しい。そして貴方がそれでもオレを求めるのなら、今度はゆっくり時間を掛けて恋をしよう」
「イルカ、それは」
 焦って言い返そうとする男をイルカは視線で留めた。黒く濡れる瞳に宿るのは寂寥と恋情と、そして希望だ。男は息を呑むと、紅と蒼の双玉で見つめ返した。最初は眉を寄せ切なそうに、しかし徐々に力が抜け柔らかに弧を描く。目尻にじわりと涙が浮かんでいたものの、その表情は晴れやかだった。
「分かった、今すぐイルカを解放する。庭は俺が完成させるから……それで、また、名乗れる立場になって、イルカをここに呼べる日が来たら……」
「きっとオレは涙を流して、『どうして?』って訊く。貴方は笑ってくれればいい」
 へへっとイルカは鼻の傷を引っ掻いた。照れ笑いなんて随分久し振りの感覚だ。男は何度も頷いて、ついにぽろりと一つだけ滴を落とした。
「うん、うん。……ごめん、イルカ。許されてから謝るって卑怯なことだって分かってるけど、それでも」
「もういい。酷いことばかりじゃなかった。執着は凄かったけど、セックス以外の貴方は……もしかしたら二人とも気づいてないだけで本当はセックスの時もかもだけど、確かに愛をくれていたから、いい」
 自分でも恥ずかしいと思うような台詞に耳まで火照ってしまう。そのまま男の胸に顔を埋め「抱き合いたい」と強請った。とても小さな声だったけれど男は大きく頷き、イルカをシーツごと床に押し倒した。裸の肩が再び露わになる。
「うん。最後のセックス、うんと大事に抱くから。終わったら記憶を消して、俺の中にだけ全部残して、また会いに行くから」




 

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