ふたり 1

木の葉の里の中心から数キロ外れた山の奥深くにその屋敷はあった。
 一見すると品の良い洋館だが、双眼鏡で覗くと手入れ不足が大いに目につく。外壁の所々は剥がれ落ち、煉瓦は欠けていないものの方が少ない。色も本来シックにまとめられていただろう名残が見受けられるだけで、今は見る影もなくみすぼらしい。遠目から眺めるのが華、という正にそんな場所だ。
 悪戯盛りの子供達がある日火影岩の上からアカデミー備品の双眼鏡でその屋敷を発見し、鬼の首を取ったかのように大はしゃぎをして肝試しがてら目指すのは既に通過儀礼のようになっていた。
 腕の怪我で任務停止を余儀なくされ、現在は忍術アカデミーを手伝っている新米中忍のうみのイルカもかつてその屋敷がまだ綺麗だった頃に何度もそこを目指した一人であったが、現在この山を登っているのは別に個人的な肝試しが理由ではない。
 アカデミーの生徒数人が行方不明になっており、他の生徒からの聞き込みによると、彼らはその屋敷を探検する計画を立てていたことが判明した。
 中忍になった今では分かる。あの場所に辿り着けなかったのは高等な結界と巧みな幻術が張られているからで、つまりその持ち主は相当な手練の忍びであり、隠れ家もしくは別荘として使っているということだ。忍びが屋敷にいたとしたら子供達を保護してくれるだろうか。任務明けで気が立っている所に遭遇してしまったら少々の殺気で気を失ってしまうかもしれない。心配の種は次から次へと芽を出した。手伝いとはいえ、子供達は皆良い子で火の意志を受け継いでいる。できればこのまま真っ直ぐ育って良い忍びになって欲しいのだ。未熟な段階である今上忍に対する恐怖を植えつけられてしまったら元も子もない。
 三代目火影の号令により、アカデミー教師を始め、手の空いている上忍や中忍が一斉に山へ入った。一瞬ではあるが動物の面を着用した暗部の姿も確認した。
 木の葉の里の子は皆の宝だ。きっと火影からあの屋敷の持ち主に式は飛んでいるだろうが、その忍びのことを抜きにしても山は危険が多い。全員が真剣な眼差しで宝を守るために山中の方々へ散った。
 獣道を忍びの足で駆け抜ける。忍獣使い達が匂いで捜索を続ける中、イルカは悪ガキ時代の記憶と勘に頼ってひたすら子供達のルートを予測し先回りできる道を選んだ。
 記憶の中では大きな岩が三つ並んでいる場所を越えてしばらくするといつの間にか山の入口へと戻ってしまっていた。子供の足ではそこまで行くのにもあっちへ行ったりこっちへ行ったりの寄り道つきで随分掛かったものだ。おそらく、どんな道を選んでも必ずその岩のある地点を通るように道が仕組まれているのだろう。
 当たりがついたら後は楽だ。イルカは更に足にチャクラを込めて大きく跳んだ。

 ******

「あった」
 確か二度目に山に入った時だったか。幼いイルカは一度目の探検に同行しなかった友人に怖気づいて逃げたとからかわれたのが癪で、屋敷に近づいた証拠として三つ並んだ内の真ん中の岩の裏にイルカの落書きをして行ったのだった。歪なイルカの周りには一筆書きの星や花をいくつか散りばめ、洋館を隣に描いておいた。そしてその下に「うみのイルカさんじょう」と書き残し、再び惑わされ帰路に着いた。「また屋敷までは行けなかった」と報告するイルカを囃し立てる友人に、「オレがいったってしょーこを岩の裏にかいてきた!」とふんぞり返って宣言したのだ。それ以来子供達の間では三つ並んだ岩まで辿り着いた証にその落書きの詳細をイルカに申告するのが決まりごとのようになっていたのが脳裏に甦る。
 そして苔むした下に、その落書きは確かに存在した。ここの少し先が術を掛けられた地点だろう。イルカが精神を集中して子供達の僅かなチャクラを探ると、新しい気配が察知できた。既にここは通った後のようだ。
「戻ったのか?」
 しかし結界や幻術に惑わされたのなら、そろそろ山に入った忍びの誰かが子供達を発見していてもおかしくない。だが合図の花火は上がらない。
 イルカは少しだけ考え込み、子供達がしたであろう『直進』をすることに決めた。上手く行けば彼らと同じルートで迷えるだろう。急ぎ足にすればきっと追いつける。
 息を吸い込み、再び足にチャクラを溜めて進んだ。
 イルカのミスは任務のブランクがあるせいで、子供達の気配を探りつつ跳ぶという行為に集中してしまったことだ。
 高等とはいえ、キンと一瞬結界と幻術が解けたことに気づけなかったのだ。

 ******

 ざわざわと森が騒ぐ。そしてイルカの胸も。子供達の気配は濃くなっているものの、この場所はイルカが一度も通ったことのない道だ。まるで覚えがない。子供の頃は気がつけば山を下っていて首を傾げたものだが、今は明らかに登っている。何度も解の印を結んでも景色は変わらない。
「屋敷への道だ……」
 思わずイルカは一人ごちた。この山に掛けられていた術は解かれていたのだろうか。解いたのか、解けてしまったのか。前者ならともかく、後者は術者の死を意味する。どうしてだか冷たい風がイルカの胸の中を通り抜けた。里の同胞が命を落としたからと言うよりも、良い競争相手が突然引っ越してしまったような寂しさに似ている。まだ死んだと決まったわけではないものの、そうしてもネガティブなイメージが払拭できなかった。届かないと思っていた場所にもうすぐ着いてしまうことに実感が湧かないのかもしれない。
 イルカはかぶりを振って子供達の安全のことだけを考えることにした。絶対にこの道を通ったということは間違いない。あまり意味を成さないかもしれないけれど後から来る仲間への目印に道沿いの樹木の幹に傷をつけて進んだ。同じ高さに同じ長さの傷をクナイで刻む。イルカの鼻の傷と同じ横向きだ。手首を幾度も返して走りながら印す。最早道はほとんどないに等しい。
 子供達に踏み倒されたと思われる草の上を蹴っている内に、不意に森が途切れ目の前が開けた。
 見上げた洋館は、双眼鏡で覗くよりも一層寂れていた。遠い昔には欠かさず手入れされていたであろう大きな庭には生命の欠片が一つとして見つからず、ただ吹きつける風に砂とも土とも取れないものが撒き上げられるばかりだ。
 ここにまだ誰かが住んでいたとしても、それはただ羽を休める鳥の如く体力を回復させるためだけに訪れるのだろう。回顧するには物悲し過ぎるし、ここは孤独を象徴しすぎている。誰かを呼ぶにも向かない。生きているのか分からないこの屋敷の主を思うと何故だかイルカは泣きたくなった。時々こういうことがある。忍びにしては感情移入が過ぎるのだ。映画に行けばたとえ内容が痛快なコメディであっても、ちょっとした良い話のシーンで涙腺が緩むことすらある。
 火影はそこがイルカの美点であると同時に、弱点でもあると諭した。この腕の怪我もその性質のせいで負ったものだ。
 パチンと両頬を張って気合を入れ直す。屋敷の周りを探っても子供達は見つからなかった。
 後は、内部。
 玄関を守るのは大きな両開きの扉だった。教会のそれに似ている。鍵が閉まっていたら窓を調べようと段取りを立てつつ両腕に力を込めて扉を押した。ギィィと低い音を立て、だが意外とあっさりと開いた。中は少々埃っぽいものの人の手が全く入っていない訳でもなさそうだ。イルカの中で俄然期待が高まった。扉が開くということは家主がいるということで、子供達が入ったのは明らかだから保護されているのかもしれない。合図の花火が鳴っていないのでまだ捜索班との連絡や合流はできていないのだろう。
 安心からほうっと全身から力を抜いた。イルカの二つめのミスだ。
 その隙を突いた何者かに背後を奪われ、抵抗する間も与えられずイルカは意識を飛ばした。

 ******

 忍びたるもの、たとえ意識を奪われたとしてもそう長い時間気を失うことはない。ものの数分で瞼を持ち上げたイルカは、薄暗い場所に転がされていた。手足を動かそうにも、金属の手錠により四肢を拘束されている。両手は後ろで纏められているためにイルカは横向きになる他ない。徐々にはっきりする視界は、ここが檻の中だと告げた。石の床に鉄格子、分かりやすく無機質な空間だ。
 屋敷は他里の密偵が暮らす場所だったのか?
 イルカは顔を青褪めさせた。子供達が危ない。アカデミーで忍びの基礎を学ぶ彼らは他里で洗脳されて木の葉に牙を剥くかもしれない。それはどうしても避けたい。
 とにかくこの手錠を何とかしようとチャクラを練ろうとした途端、コツと足音がした。思わず体が硬直する。
「どんなに頑張っても外れないよ」
 それは静かな声だった。イルカが顔を上げると、檻の向こうで黒いマントを羽織った背の高い男が無表情で見下ろしている。
 男は彫刻のような端整な顔立ちをしているが、肌も髪も色素が薄い。その代わり瞳は左右で別の色を有しており、それがイルカを射ぬかんと無遠慮に向けられる。
「何者だ。子供達はどうした、何故こんなことをする」
 しかし男は質問に答えず、表情を変えずに口だけを動かし始めた。
「選ばせてあげる。子供と自分どっちが大事?」
「は?」
 唐突な問いにイルカは言葉を失った。男は意に関していないのか、語気を荒げることもせず淡々と続けた。それこそ事務員のように。
「ガキ共は別室で寝てるよ。あんたがここに残るって言うんなら返してきてあげる。自分だけ帰るって言うんならあいつらは俺が貰う」
「馬鹿なことを……っ」
 イルカの悪態にも男は表情をぴくりとも動かさない。マントの上に精巧な仮面があるように思えてならない。
「どうすんのさ。選びなよ」
 男は要求を曲げる気が更々ないようだった。イルカは必死に考える。男が実力者だとしても、子供達よりは己の方が逃げられる可能性は高いだろう。子供達が発見された後捜索に出向いた自分が行方不明になれば火影が気づかないはずがない。また、仮に子供達を残したとしたらどんな目に遭うかも分からない。すぐに他里に引き渡されてしまうかもしれない。自分の奥歯にはいざという時の毒が仕込んであり、最悪命一つで終わらせられる。聡い三代目火影のことだ、イルカがこの山に関わって消えたとすれば捜索しない訳がない。
 イルカは決意を固め、男の瞳を睨みつけたまま告げた。
「子供達が大事だ」
「ご立派なことで」
 男は大して関心がないのか、それだけ言うとマントを翻しくるりと踵を返した。
「どこへ?」
「ガキ共を里に戻してくる。ついでにあんたを貰う手続きもしてくるよ」
「何だって!?」
 スパイだというのはイルカの思い過ごしだったのか。
「それくらいの権限はあるよ。里にはたっぷり貢献してるから」
 そこで初めて男の顔に感情が宿った。全てを寄せつける気のない、この屋敷のような冷え冷えとした笑みだったが、それは悲しくも男に良く似合った表情だった。



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