その時、一番のおかいもの

 ナルトに額宛を授けた。
 オレが考えていたよりもナルトはずっと大人で、頑張り屋だった。
 多重影分身の術を会得して、ミズキをタコ殴りにした。
 その背中は一人の忍びだ。
 不遇の訳を知って、オレの両親のことを知って、それでも尚、火影になるのだと宣言した。
 だからオレの、ちょっと薄汚い額宛をつけてやった。
 見舞いに来たナルトに後日取り換えると言っても「これがいいんだってばよ!」の一点張りで離さないので、オレは今ピカピカの額宛を身に着けている。ちょっと恥ずかしい。。
 ちなみに天性の丈夫さから入院は三日で済んだが、さすがに自由奔放な新入生に対応する力はないということで、卒業生の引継ぎが済んだらしばらく受付に専念することになった。
 新しく下忍になる子供達の担当上忍師は、全て火影様に一任されている。
 誰になるのかは俺も分からない。資料はスリーマンセルの組み合わせの日に火影様と上忍師の間でやりとりされるのでオレは関われない。
 子供達が見極められる朝に初めて知らされる。それは、教師によるゴリ押しを防ぐための処置だ。
 アカデミー教師としては卒業生は皆可愛いし、下忍にしてあげたい。だが、上忍師にはそれが命を預け合う部下になる。
 色眼鏡なしの判断を、という決まりに逆らうつもりはない。
「ほれ、イルカ。こやつらに頼んだ」
「はい」
 受け取った資料に目を通す。
 そして真っ先に視線が吸い寄せられた。ある名前に。
「はたけ……カカシ」
 火影様がニヤッと笑ったのをオレは見逃さなかった。アスマ兄ィから入れ知恵されたのかもしれない。必死に言い訳の糸口を探して、あるデータを見つけた。
「ご、合格者ゼロじゃないですか!」
 火影様は途端にぶーたれた顔になった。この歳なのに未だ枯れることなくプレイニンジャを愛読しているだけあってゴシップ好きなのだ。。
「そうじゃよー、こやつは今まで合格確率ゼロじゃよー。それだけかのーイルカ。それだけなのかのー反応するところは」
「それだけです!」
 オレはそっぽを向いて仕事に逃げた。
 もしかして、ラーメンを断った頃にやけにお昼ご飯を奢ってくれたのはそのせいか!
 貰いものの羊羹を持たせてくれたのも知っていたからだったのか!
 続々思い当たることが掘り返されて、赤くなったり青くなったりしながら受付をしていたオレはかなり不審だったと思う。
 不審度が過ぎて、同僚から強制的に休憩を言い渡された。
 とりあえず顔を洗おうと、トイレに向かう廊下で腰に衝撃が走った。
 骨はくっついているものの、まだまだ安静が必要だというのに。こんなことをするのは一人しか知らない。
「ナルト!!」
「へへっ」
 配慮をしろと叱るべきかと数瞬考えあぐねている内に、大きな衝撃がもう一つと、控えめなのをもう一つ食らった。
 桃色頭とカラス頭。
 おやっと思った。この面々。
 そして一様に喜びを振りまく三人の表情に、オレの血は湧き上がった。
「う、受かったのか!?」
「とーぜん!」
「何よ、サスケ君の行動がなかったら不合格だったじゃない!」
「ウスラトンカチ」
 こんなやりとりも、三人が三人とも頬っぺたを緩めているから全く刺々しさがない。
 全員を正面に移動させて、全員まとめてうりゃーと髪をくしゃくしゃに撫でたりしながらじゃれていると、がら空きの背中が突然覆われた。
 しっかり抱き込まれて振りほどけない。
 手が止まったオレを見上げる子供達が、すぐにまた声を上げた。
「何でカカシ先生もイルカ先生に抱き着いてるんだってばよー!」
「そーよ、イルカ先生の手止まっちゃったじゃない」
「大人がやるな、見苦しい」
 カカシ先生?
 抱き着いてる?
 カカシせんせいって。
 はたけ、かかし?
 耳元で、あの時よりも幾分深みを増した声が産毛を擽った。
「だって俺だけ仲間外れって寂しいじゃない」
 間延びした、のったりとした喋り方だ。
 里では、光の人はこんな風に話すのか。
「だめー、イルカ先生は生徒皆のものなんだから!」
「カカシ先生がやっても鬱陶しいだけだってばよ!」
「いい加減離れろカカシ」
「はいはい」
 ふっと温もりは離れていった。名残惜しさを感じるくらいは罪じゃないだろう。
 振り返るとはたけ上忍の目線は同じくらいの場所にあった。猫背な分、背筋をしゃんと伸ばしたら彼の方が身長は高そうだ。
 オレは腰を折って頭を下げた。
「うみのイルカです。アカデミーでこいつらの担任をしていました。ナルトは考えなしに一人で突っ走るし、サスケはエリートの自負からスタンドプレイに走りがちだし、サクラは目的のために周りが見えなくなるところがあります。でも全員火の意志を持っていることはオレは保証します!」
 よろしくお願いします、ともう一段階腰を曲げた。
 はたけ上忍は頭をかいているのか、わしわしと髪が鳴く。
「あはは、お前らの先生真面目だねぇ」
 よろしくねイルカ先生とポンと肩を叩かれて、ついでに報告書をポケットに滑り込まされそうになったので中忍ガードを発動した。手首を返させて逃れる、体術の応用だ。これはアスマ兄ィによくやられる技だから体が勝手に反撃してしまう。
 胸を張って相対し、呆然とするはたけ上忍を見て血の気が引いた。けれど、出してしまった技は引っ込まない。だからヤケになって、伝家の宝刀受付スマイルを全開にしてやった。
「はたけ上忍、報告は受付所で」
 ナルト達の歓声を背に受付に早足で戻って、思い切り項垂れる。はたけ上忍の表情なんて伺えるはずもない。
 もう駄目だ、反撃してしまった。甘んじて受け入れればよかったのに。
 真面目で頭の固い中忍と思われただろう。
 報告の忍びも来ないので存分に自己嫌悪に陥っているともれなく火影様がちょっかいをかけてきたので、それを華麗に水面下で捌きつつ、尚もしょんぼりを貫き続けた。
 オレのしょんぼり力に屈した火影様が、火の印の入った笠をフリスビーにして遊び出した。最初は書記官の方がやれやれお戯れが過ぎると一々立ち上がって取りに行っていたのだが、やがて誰も拾いに行かなくなった。それがまた退屈した老人の機嫌を大いに損ね、暴走させる。火影様の真横に書類が積み上がっていることには、突っ込んでも意味がない。
 火影様が「見よイルカ、これが大リーグ笠ダブルオーセブンじゃ!」とか何とか叫んでもオレは顔を上げなかった。
 でも、べっしという間の抜けた音と「わぷっ」とくぐもる声にはハッと顔を上げてしまった。
「火影様……何つーモンで遊んでるんですか」
 はたけ上忍がやれやれと笠を片手に近づいてくる。どうかオレの前に立たないでくださいと願えば願うほど、こちらに向かっているように思えるのは気のせいか。
 逃げようにも不自然だ。はたけ上忍は何故かオレの前に立って火影様の方に向いて笠を返し、そのまま談笑している。
「初代も二代目もこうして遊んだもんじゃ」
「確かに先生も遊んでましたけど」
「伝統の再確認じゃのう」
「ま、子供連れてなかったからまだいいですけど。あいつらとか、依頼人の前でしないでくださいよ」
「分かっとるわい」
 楽しそうだし、このままトイレに逃げてもいい気がする。抜き足差し足の第一歩を踏み出そうとしたら、はたけ上忍が四十五度向きを変えてずいっとオレに詰め寄った。さっきから距離がひたすら近い気がする。
「イルカ先生」
「は、はい」
「オレの報告書は真面目に出すように言ったのに、火影様のおふざけに注意はしないんですか?」
 なんだそりゃ。
 それこそふざけているのかと思ったが、はたけ上忍の唯一覗く右目はじとっとオレを睨んでいる。
 その様子に、彼は憧れの人のはずなのに、オレはいじけている子供みたいだと噴出しそうになった。
 教師をしているとこのジト目にしょっちゅう遭遇する。
 それを放置すると不信感に繋がってしまうのだが、あんまり正論過ぎても伝わらない時がある。
 オレはこういう場合、ただ思ったままの事実を告げることにしていた。
「オレは今しょんぼりするのに忙しかったのです」
「しょんぼり? 仮にも里の長が大技決めてたのに?」
 怪訝そうにメンチを切られても、ああ綺麗だなとしか思えないオレは大概末期だ。
「しょんぼりの方が、大リーグ笠ダブルオーセブンより大事です」
「何でしょんぼりしてたの?」
 そんなことまでは正直に言える訳がない。
 教え子相手でもよくあることだ。
 正直に真実を伝えられず、でも嘘はつけない。
 そんな時は、嘘ではない別のことを伝える。
「はたけ上忍に先程お見せした笑顔が、我ながらドヤ顔だったなぁと」
 完全無欠の受付スマイルではなく、照れたようなはにかみを添える。内勤の忍びは前者ばかり目立つけれど、こっちだって立派な武器の一つだ。鉄壁ではなくノーガード戦法で、相手の攻撃を封じる。
 多用すると効果が薄れるので、人前であまり見せないだけだ。
 どうでるかな? とさりげなく伺おうとして、止まらざるを得なかった。
「気に入りました」
 そう言って。
 はたけ上忍の手甲をはめた、あの日「頑張ったね」とオレを撫でた指が、今度は頬を擽る。時間にしたらほんの一秒にも満たない。
 しかし薄れつつ、萎みつつあった夢を、薪を足した炎のように燃え上がらせるのには十分だった。
 熱い。
 オレやっぱりこの人が好きで、買いたい。
 騙し騙し使っている洗濯機、貰い物で三回に一回止まる電子レンジ、ぺらぺらの煎餅布団。
 この人を買うためにずっと大事に使っている身の回りのもの達が気持ちを後押ししてくれる。
 一生に一度のお買いもの。
 悶々と考えを巡らせている間にはたけ上忍が何やら囁き、報告書を置いて立ち去った。
 頭が機能しなくて、ただ触覚だけがいたずらに敏感になって、耳を掠める呼気に震える。
 ぽおっとしていたら、火影様に肘で突かれた。これ以上ないくらい頬の肉がだらけ切っている。女子か!
「隅に置けんの、イルカ」
「何の話ですか」
「しらばっくれおって……」
 火影様がブツブツとずっと何やら呟いて、『蝶結び』だの『仲睦まじい』だのといった少女誌を押しつけてくることに辟易した頃、やっと任務帰りの忍び達が報告をしにきた。
 さあ仕事だ。火影様はオレにちょっかいばかり出していたから今日の分の仕事が全く終わっていない。しょぼくれて判子を押しだしたのを確認してから、目の前の列を捌きに取り掛かった。
 それも集中すればあっという間だ。元教え子の某の報告を喜び、中忍の某と談笑し、上忍の某に因縁をつけられるいつもの一日。
 けれど今日という日は、目まぐるしく周囲が変化したように思える一日だった。
 ナルト達は無事下忍に合格し、はたけ上忍と言葉を交わした。
 その事実に遅まきながら血管が騒ぐ。
 話したんだ、オレ。あの人と。
 名を呼ばれたんだ。
 きっとすぐにでも忘れてしまうだろうけど、名を告げれば思い出してもらえるであろう立ち位置に。
 そこまで行き当たって、急に恐怖が、意地悪な顔をした誰かからポイッと落とされた。
 オレが彼の前に札束を積んだらどんな表情をするだろう。
 侮蔑? 嫌悪?
 はたけ上忍がオレという存在の欠片を持っていなかった場合よりも、それらが顕著になるだろう。
 だってオレ達は『知り合い』になってしまったから。
 それを思うと少し身が竦んでしまう。
 オレの行動で、子供達が不当な扱いを受けたらどうしよう。
 里一番の上忍を金で買う教師というレッテル。
 その響きの穢らわしさに、先程までの強い欲が後ずさりしてしまう。
 鞄の中の通帳が、やけに重い。
 早く家に帰ってこんな鞄放り投げよう。一晩寝れば気分も晴れる。きっとたくさんのことが重なって疲れているだけだ。
 そう言い聞かせて足早に、アカデミーの校門を抜けようとした。ここを通る方が家に早く着く。
 ほうほうと夜鳥が静かに仲間を呼ぶ声が方々から聞こえる。早足過ぎて鳥を驚かせてしまうかもしれない。
 せっかく落ち着ける場所を見つけたのに可哀想に思い、歩調を少し緩めようかとブレーキをかけようとした。
 だがそんな配慮も無意味となる。
 その樹木に体を押しつけられる。飛び去る羽の音、わさわさと振動する枝。
 片腕を木の肌に縫いつけられ、膝で足を絡め取られる。
 ナルトが下忍に合格したからか――――。
 悲しいが、あるとは予想していたし、心乱れているとはいえいつでも対応できるよう身構えていた。
 だがこうも簡単に押さえ込まれてしまうとは思っていなかった。相当の手練れだろう。
 ナルトが正式に木ノ葉の里の忍びとなることを許せない者だっている。
 まだナルトと九尾を区別できない者、家族を失った悲しみをナルトにぶつける者。
 ナルトにとっては迷惑この上ない話だが、十二年という年月は九尾の事件を拭い去れる程長くないし、かと言って偏見を形成する間もない程短い訳でもない。
 一発だけ拳を受け止めて抜け出そう。その後何とか説得して気を収めてもらう。
 どこを殴られてもいいように、体内に防御用のクッション代わりとなるチャクラを巡らせる。
 しかし、待てども待てども衝撃は襲ってこない。
 いざ傷つけようとして我に返ったのかもしれない。
 今すぐにでも話が通じるかもと期待に顔を上げて、言葉を失った。
「どうして逃げるんですか?」
 拳が降ってこないのは当たり前だ。
 だって、この人がナルトを認めたのだから。

*****

 アカデミーで残業をしている同僚達の使用する蛍光灯の光のおこぼれがオレ達二人にぽろぽろと降り注ぐ。
 その欠片を集めて、オレははたけ上忍の表情を観察した。
 蒼い瞳が悲しそうな色を湛えてオレを見つめる。澄んだ湖のいいとこ取りをしたような深さと揺らめきが、泣きそうにも見えるから不思議だ。
 何でそんなにはたけ上忍もしょんぼりしているのかとか、聞きたいことはたくさんある。
 とりあえず、言葉の意味が分からなかったので訊ねてみた。
「あの、逃げるって何ですか?」
 頭の上でまた枝がしなる。はたけ上忍との距離が一段と密になる。顔が近くにあり過ぎてぼやけてしまいそうだ。もっと見ていたいのに。
「仕事終わったら食事に行こうって言いましたよね? 受付の入り口で待ってたのにいくら待っても出てこないと思ったら、火影様にもう帰ったって言われた俺の気持ち分かります?」
「すみません、考えごとしてたらつい、いつもの道から帰ってしまいました」
「邪な想いを見抜かれたのかと思いました……」
「はい?」
「会って間もないのにこんなこと言うのおかしいとは分かってます。イルカ先生も俺も男だってことも承知です。気持ち悪いと振ってくださって構わない。でももう、ちょっと嫌われそうになったくらいで俺はかなりショックを受けてしまうくらい、貴方に関しては我慢が効きません」
「仰ってる意味が」
「好きなんです」
 誰を? なんて間抜けなことは訊かない。
 悲しそうだった瞳はいつの間にか熱に燃えて、相変わらずこちらを射抜いている。
 はたけ上忍の左目は燃えるような紅い写輪眼だと聞いている。
 しかしオレにとっては、この右目こそが留まることを知らずに燃え上がる、蒼い炎に見えた。
 炎は紅い色よりも蒼い色の方が酸素が十分で温度が高い。
 それが今この身を焼き尽くそうとしている。
 今日はこの人のせいで混乱してばかりだ。

*****

 はたけ上忍の呼吸を耳と肌で感じながら、オレの中で連想するのは一冊の通帳だった。
 ここ五年、オレにとっての彼はずっとその中で育っていたからだ。
 異常性には既に気づいている。倫理からの脱線も、はたけ上忍という個人を軽んじていることも。
 好きだと言われて、オレもですと答えることは簡単だ。
 いつ飽きられるにしろ、どうせ一晩だけ買うつもりだったのだからそれよりも期間が延びていいじゃないかと囁く声が聞こえる。
 それはとても甘い。だって愛してもらえる。本来は、そこに愛などなかったはずなのに。
 はたけ上忍に愛される自分を想像してその贅沢さに酔っていると、その上忍がまた通帳に変化した。
 そして通帳からぽたぽたと、金の雫が滴り落ちる。
 チチチ、チチ。通帳が鳴く。
 雀だ。
 雀が泣いている。
 ぽた、ぽた。命を繋ぐ点滴の音に似たそれは、一定のリズムを保って地を叩く。
 やがて雀の涙はちょっとした池を形成していた。
 その池は今後の人生をかなぐり捨てた、一晩の夢のための舞台だ。
 そんでもって、オレの五年間の集大成だ。
 叱責も嫌がらせも暴力だって耐えてきたのは、ナルトへの愛情だけじゃ足りなかった。この通帳が五年間、道を照らしてくれた。
 その年月はどこに消えるのか。
 洗濯機、電子レンジ、煎餅蒲団。それだけじゃない、数々のボロボロの家具や電化製品。
 油染みで読めなくなっているけど、中身なんてとうに記憶した節約レシピの本。
 飲み会参加率が悪くても、許してくれた仲間達。
 来店の機会の減ったオレのために、一杯のラーメンに情熱を注いでくれたテウチさんと、それを支えたアヤメさん。
 全部オレのエゴで始めた。
 はたけ上忍に非なんて一つもないことは重々承知だ。
 だけど、だけどな。
 こいつら全部、どこへぶつけたらいい?
 買わなければ何も始まらないし終わらないと思っていたオレの、弱虫で卑怯で、でも五年間育て続けた恋心は。
 この人のちょっとした気まぐれで消えてしまうような軽さのものなのか?
 何かが切れて落ちる音が、近くて遠いどこかで鳴った。


まだ続く……   



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