今日もまた憂鬱な一日が始まる。
転校してきて二ヶ月、オレうみのイルカはあるヤツに好かれてから碌な学生生活を送れていない。
教室の入口をくぐった時からその先は四面楚歌。
夏の日差しをカーテン越しに届ける窓際にたむろっていた女子連中が、頭一つでかい銀髪セーラー服の背中を押しニヤニヤしながらオレを見る。
衣替えを済ませ夏服になった銀髪ことはたけカカシは、普段真っ白な肌を耳まで真っ赤にして震える声でオレの前に立った。
アブラゼミの鳴き声にかき消されそうなくらいか細い声。でかい癖に、足なんて百メートルを五秒で走れそうな筋肉付いてる癖にコイツは俺の前ではいつもこうだ。
「う、みのくん、おはよう」
このまま無視をしても胸糞が悪いし後が面倒だ。
「……はよ」
渋々返事をしてやるとカカシは女子の集団の中に駆けて行きしゃがみ込んだ。後はいつもと同じやかましさが続く、耳障り。
自分の席に鞄を引っ掛けた所で、これまたお約束でクラスのリーダー格の女子が数人を引き連れてこちらへやって来る。
「うみのくんさ、もう少しカカシに優しくしてあげてよ。あんな一途でいい子に冷たい態度とるって何なの?」
そーよそーよと金魚の糞。
「こういうのって本人同士の問題だし」
なにそれーと金魚の糞。
「またそれ。うみのくんが全然好意的な対応しないからカカシも怖がっちゃうんでしょ!」
いい加減うんざりしてオレは周囲に聞こえるように溜息を一つ吐いた。
女子からは、早くはたけカカシの気持ちに応えてやれという押し付けがましい視線。
男子からは、お前が諦めればクラス中が上手く行くんだという懇願めいた視線。
そして当のはたけカカシからは、ただただ熱っぽい視線。
鬱陶しい、うざったい、勘弁してくれ。
オレは反応することを放棄してポーズだけの予習を始めた。
やがて救いのチャイムが鳴る。恐ろしいことにオレが学校で一番気が休まるのは昼休みを除けば授業中だけだったりする。
* * *
四限目が終わるとオレは即座に弁当と水筒の入った鞄を引っ掴んで外へ出る。
背後ではそれぞれの仲良しグループが机を動かして向かい合わせる音が響く。前の学校では気の合う仲間と楽しい弁当タイムとばかりに同じ行動をしていたけれど、ここに来てからそんなことはしたことがない。
上から見て死角になる場所を選んで腰を落ち着ける。
最近見つけたこの場所は学校の隣に建つ家との間のフェンスの影だ。ボールなどが入らないように大きな樹が植えてあって、涼しいのも気に入っている。寒くなるまではここで昼食をとりたい。
気に入っている理由はもう一つあって―――
「イルカ兄ちゃん!」
「ナルト、声でかい!」
オレはフェンスに寄って来た金色の髪をついと軽く引っ張った。
「あ、ごめんってば」
この場所に好んで来るのは隣の家に住む幼稚園生のナルトと仲良くなったからに他ならない。
ナルトは木登りに失敗して腕を折り(チャクラの練り方が〜とか訳の分からないことを言っていた)、自宅で毎日退屈していたところ、この場所に身を隠しに来たオレと出会った。
当然ナルトの怪我が治ったら彼は幼稚園に戻ってしまうのが、先のことは先のことで深くは考えないようにしている。
「今日はから揚げ余計に入れてきたからお前にもやるよ」
「マジで? イルカ兄ちゃん太っ腹!」
この町の唯一の友人が幼稚園児というのも淋しい気がする。けれどもこのナルトは年の割にませているので話していてなかなか面白い。
木漏れ日の下、フェンス越しに一つの弁当を分け合った。
ハムスターのように頬にから揚げを詰め込んでいる様は幼稚園児ならではの無邪気さでちょっぴり眩しい。
ナルトは食事をしながら、幼稚園で同じクラスの『サスケ』という少年についてよく話す。
『サスケ』は相当女の子にモテるらしく、ナルトはよくちょっかいを掛けているらしい。
腕を折ったのも実は『サスケ』にイタズラするための一環だったものの、当人が登場しビックリして落ちてしまったそうだ。
そのことにショックを受けた『サスケ』は錯乱し、「お前を傷モノにしたのは俺だから責任を取る。結婚しよう」などと発言し女子との間に一波乱あったのだとナルトは顔をしかめて話してくれた。
「そっか、お前も男に好意持たれてるのか」
ナルトの気持ちはしかと分かる。こっちにそういう好意がないのだからそれを押し付けられても迷惑以外の何者でもないってこと。
「お前もって、イルカ兄ちゃんも?」
「ああ、クラス中が俺を好きな男の味方だからこうしてお前のところに逃げて来てる」
思い出すだけで胸の奥がずんと重たくなる。クラス中のいらん思いがこの胸にこびりついているみたいだ。
「そっかぁ。でもさでもさ、俺イルカ兄ちゃんがいない時間はずっと家で考えてて思ったんだってば。サスケが告白したのは勇気を振り絞ってくれたのかなって」
ナルトはいつになく真剣な目をして言った。
「勇気?」
「だってさ、俺ってばサクラちゃん……好きな子に冗談みたいに『好き』って言うのは簡単だったけど、サスケみたいに真剣に『結婚』とか言う勇気全然ないから」
平気そうに見えてすごく不安だったのかもしれないと思う、それを気持ち悪いの一言で薙ぎ払うのは出来ない、とナルトは言った。
はたけカカシは直接オレに「好き」と言ったことはなかった。
それでも毎朝囃し立てられながら懸命に一言「おはよう」と告げることに、あの表情からして相当ナルトの言う『勇気』を使っていたのではないだろうか。
「ナルト、お前幼稚園生の癖にすごいな。大物になれるぞ」
フェンス越しでなければその金色に輝く髪をくしゃくしゃとかき回してやりたいくらいだ。まさか幼稚園児に教えられるとは。
「俺ってば火影になる男だからな!」
「火影? 何だそれ」
聞いたことがあるようなないような不思議な単語だった。
「ん、何だろう。つい口から出てきたから知らない」
へへっとナルトが鼻の下を擦って笑った。俺もつられて頬が緩んでしまう。
「なーんだそれ。ホレ、から揚げもう一個やるよ」
「サンキュー!」
今日は特別に五限目の授業をサボってナルトとの会話に興じることに決めた。
* * *
教室に戻ると女子と数名の男子からの視線が痛かった。
「カカシがうみのくんは体調が悪いそうですって先生に言ってくれたんだからね」
またはたけカカシはオレのためにいらぬ勇気を使ってしまったのか。
「そう。はたけ、ゴメンな。ありがとう」
お礼を告げるのもちょっと勇気がいる。少しでも返せればいい。
オレの素直な感謝が意外だったのか女子はにわかに騒ぎ男子もごにょごにょと何やら小声で話し始めた。
そして当のはたけカカシはすっかり硬直している。
「弁当食った後気持ち良くて昼寝しちゃったんだ。迷惑掛けるぐらいだったら授業中に寝れば良かったな」
くすりと女子が笑った。いつものニヤニヤ笑いじゃない、嫌な感じのない笑い方だった。少しずつ教室にこの笑いが増えればいい。
それ以上会話して怪訝に思われても嫌なので、俺は次の授業の準備を始めた。周りに耳を塞いでしていた時の行動とは違って、心が軽かった。
* * *
それから少しずつオレはクラスメイトと打ち解けていった。はたけカカシとはほんの少し、だけど必要以上に素っ気なくすることはなく会話する。
昼ご飯に誘われることもあったが、それだけは断った。ナルトの怪我が治らない内はあの恩人の話し相手になってやりたい。オレも楽しいし。
何日か経ち夏休みが近付いていた。今日もナルトの所へ向かう。オレと同じでラーメンが好きらしいので、スープで煮込んだチャーシューやメンマ、そしてアイツの名前と同じナルトを弁当に詰めて行った。
「これうめー! イルカ兄ちゃんが作ったのか?」
評判も上々なようで何よりだ。
「ああ、うち両親が共働きなんだよ。お前と一緒」
ナルトの家族の状況は聞いていた。父親は大企業の社長で、母親は別の企業で働くキャリアウーマンだそうだ。昼食は毎日手作りのものが置いてあるのだけど、全部食べてもすぐ腹が減るのでオレからたかっていると笑っていた。軽く小突いた。
お互い大変だってばーと分かったような口を利いてから、ナルトは味付けについて懇々と話し始めた。休日にラーメンを食べに行ってもとんこつは滅多に食べさせてもらえないと嘆いている様には思わず同情してしまう。
「うちの母ちゃんの料理ってば父ちゃんの好みに合わせてるから味が物足んないんだってば。俺のこと好きなら俺好みの味にして欲しいって頼んだら、母ちゃんなんて言ったと思う?」
俺は首を振った。じっくり考えて答えてもいいけれど、ナルトがその先を話したそうにしていたからだ。
「俺のことは世界で一番大好きだけど、母ちゃんは父ちゃんのことを『アイシテル』って言ってた。俺一番なのに訳分かんねーってばよ!」
「そうかー、ラブラブだな」
子供には難しいかもしれない。かく言うオレもまだまだ未熟だから、『好き』と『愛してる』の違いは明確には理解出来ていない。子供の時は最大の愛情表現が『すごく好き』止まりで、好きな子にいろいろ無茶を言った気がする。
子供の時の思い出を話そうとしたが、記憶を辿る前にナルトの声に遮られた。
「とりあえず『アイシテル』ってすげーことみたいだから、俺もサクラちゃんと『アイシテル』って言い合えるようになるよう頑張る!」
ナルトはかなり『サクラちゃん』にお熱らしい。幼稚園に行けない間も、話すのはほとんど『サスケ』のことながら毎日電話をくれるんだそうだ。
「おう、男らしいな。で、サスケは?」
オレはわざとナルトが触れたがらない話題を振ってやった。案の定顔が赤くなる。
「サスケ……そのことは、あ、後だってばよ」
「はは、モテる男は大変だな!」
イルカ兄ちゃんの意地悪、とワイシャツの肩を掴まれたところで、不意に背後の木陰から予期せぬ声が掛けられた。
「あの」
「へ?」
うっかり口から間抜けな音が漏れた。振り返るとそこに立っていたのは、セーラー服のスカーフをもじもじと弄っているはたけカカシだった。
ざわざわ揺れる木漏れ日が銀色の髪に当たって眩しい。ナルトと並ぶと宝石みたいだ。
ナルトには話題を振っておいてズルい話だと自分でも思うけれど、オレはあの日以来ここでの会話で彼の話題に触れていない。
「あ、カカシ兄ちゃん。すんげー久し振り。なんで女の服着てんの?」
当然の疑問だ。オレもずっと訊きたかった。
「うーん、まあいいじゃない」
やはりというか何というか、案の定はぐらかされてしまった。それよりも何だかナルトとはたけカカシは親しそうなのが気になる。
「え、お前はたけと知り合いなのか?」
「イルカ兄ちゃん知らねえの? うちの隣カカシ兄ちゃんの家。ついでにその向こうはサスケの家だってば」
ナルトは丁寧に指を動かして教えてくれた。ナルトの家も大きい部類だが、その隣のはたけカカシの家もかなりでかい。『サスケ』の家に至ってはここからだと肉眼では全体が確認できない豪邸だ。
「で、はたけはどうしてここに?」
ぼおっと突っ立っているはたけカカシに訊ねると、彼はバツの悪そうな顔をして俯いた。よくあることだ。そのまま逃げるだろうかと思ったけどぼそぼそと理由を話してくれた。
「……辞書を家に忘れちゃって、外に出てぐるって回るよりもフェンス越えた方が早いから、その」
成程、確かに正門から出て自宅に帰るよりもフェンスから入った方が早いのは分かる。でもその当のフェンスが結構高い。この足なら大丈夫かもしれないが、目の前で落ちられても困る。
「あー、でも越えられるのか? 結構高いけど」
「うん、それは慣れてるから……あの、後ろ向いててもらっていい?」
はたけカカシがまたもじもじとする。今度はセーラー服の上衣の裾を握って肩を震わせている。
「ん、いいけど何で?」
彼は顔を赤くしてきゅっと目を瞑り、覚悟したように告げた。
「す、スカートの中が」
「ああ」
やはり所作が、それとおそらく心も女性なだけあってそういうことが気になるのか。フェンス越えという行動そのものは男らしいのに。ギャップがおかしくて頬が緩んだ。
「気がつかなくてごめん。怪我しないように気をつけろよ」
そしてオレは素直に後ろを向いてナルトと背中越しに会話を始めた。そっちを覗く気はないよという意思表示のつもりだった。それを察したのか、カシャンとフェンスの鳴る音がした。
「ありがとう」
聞こえたのは珍しくはっきりとしていて、そして芯のある男のはたけカカシの声だった。それからすぐに割と派手なガシャガシャという音と、ストンと軽い着地の音がしたので振り向くと、そこには当然ながら彼はいなかった。
「これ越えるのか。あの筋肉だもんな、可能か」
見上げたフェンスは俺の身長の倍近くはある。あれだけの音しかしなかったってことは、登ったんじゃなくて足を引っ掛けて飛び越えたってことだ。感服。
「チャクラを練れば一発だってば」
ナルトが威張って言う。『チャクラ』というのはナルトがちょくちょく口にする謎の単語の一つだ。
「だからそのチャクラって何だよ」
返事は勿論。
「んー、分かんね」
いつも通りだ。どうせ漫画で読んだ断片的な記憶か何かだろう。『火影』と並ぶ頻出ワードだ。
「こいつめ!」
頭を捕まえられないから耳の裏を撫ぜてやる。これは意外とくすぐったい。ナルトも肩をすくめた。
「うひゃっ。もー、それ止めてっていつもいってるじゃんか」
「『チャクラ』とか『火影』の意味を分かりやすく教えてくれたらやらねぇよ」
「ぶぅ。……そういやイルカ兄ちゃん、カカシ兄ちゃん待つの? もうすぐ授業の時間だろ?」
ナルトに言われて時計を確認すると昼休み終了まで残り五分だった。教室までは走ったら余裕、歩いたらギリギリってところ。
「うーん。戻って来て落ちられても待つつもり。間に合わなかったらまたサボるから付き合えよ。今日は次の時間で終わりなんだ」
「マジ? カカシ兄ちゃんが遅くなりますように!」
手を合わせてなむなむと願うナルトがおかしい。
「お前はそういうヤツだよな」
呆れ半分にそう言うと、ナルトはひひっと悪ガキに相応しい笑みを浮かべた。
* * *
「げ、もう戻ってきたってば」
金属の擦れる音がしたので俺はまたそっぽを向いた。すとん、と土が衝撃を吸収する。先程同様変わらず軽い着地だ。
「げって何よ、げって」
ナルトに対するはたけカカシの口調は軽い。素なのかもしれない。こっちの方がよっぽどいいのに。
「だってよ、カカシ兄ちゃんが遅くなったらイルカ兄ちゃん授業サボってここでお喋りしてくれるって言ったんだもん」
「え」
はたけカカシが固まった。まずい。勘の良いはたけカカシのことだ、前回のサボりも昼寝ではなくここでのお喋りだったと気づかれてしまったかもしれない。
「バラすなよナルト、はたけは真面目なんだから」
チクるなんて真似はしないと思うけれど、嘘を吐いていたと知られてしまうのはいい気分ではない。ましてやその時オレを信じて偽りの報告までしてくれた人間だ。
悶々と頭を悩ませるオレに対して、はたけカカシの放った言葉は予想の斜め上を行くものだった。
「……サボる?」
「へ?」
間抜けな音パートツー。これもはたけカカシなりの『勇気』?
「俺も久し振りにナルトとも話したいし、うみのくんとも……」
オレの返事の前にナルトが大はしゃぎしてしまったので、否とも諾とも答える前にそこでの三人によるお喋りがなあなあの内に始まってしまった。
はたけカカシとこんなに話したのは初めてのことだった。それもひとえに幼稚園児らしからぬナルトの舌力の賜物だろう。
以前よりは打ち解けたとはいえ、一般的にはまだまだぎこちなかった彼との関係を若干修復してくれた功労者ナルトに、明日はコンビニでデザートを買って来てやろうと密かに誓った。
* * *
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。
太陽の角度が変わってこの木陰にも少々日が入るようになってきた。そろそろ授業も終わるので教室に戻らなければならない。
微妙な関係のはたけカカシと俺が同時にいないことで誰かがいらぬことを考えているかもしれないが、まあそれはそれで勝手に想像させておくことにしよう。少なくとも殴り合った痕などはないため暴力的な発想は出ないと思われる。
まだまだ話し足りないのかぶーたれたナルトに、帰りに寄ってやると約束したらとても喜んだ。そこまで感情を露わにされると俺も嬉しい。障害の何もないナルトの家の庭で、あの金色の頭をこれでもかと撫でてやろう。オレがくふくふと予定を立てたりなんかしていると、はたけカカシもぽつりと零した。
「俺も久し振りに寄ろうかな。遅くなるかもしれないけど」
鉢合わせるかもしれない。まあいい、その時はその時だ。周囲からの視線がない分はたけカカシとの遭遇もそれほど苦に感じなくなっている自分に若干驚いた。
「おう、カカシ兄ちゃんも待ってるってば。アイス買って来てくれよな!」
「はいはい、イチゴのカップアイスでしょ」
「それは昔! 今はバニラとチョコのバーのがいい」
「我儘だねぇ」
その他愛のないやり取りに噴出すと、二人は顔を見合わせてから同じ表情で笑った。
「じゃ、家に入ったら水分取るんだぞ。熱中症になるからな」
「了解だってば! イルカ兄ちゃんもカカシ兄ちゃんもまた後でな!」
元気にブンブン手を振るナルトにそこそこに手を振り返し、人に見られない道を選んではたけカカシと歩いた。
「はたけって意外と喋るんだな」
俺の言葉に頷いたはたけカカシは気のせいでなければ楽しそうで、普段とは違った風に頬を染めていた。上気している、と表現するのがしっくりくる。
「うん。久し振りかも。女の子は周りで勝手に喋るだけで会話はあんまりしないし。頷いてるだけで済むから」
意外と中身まで完璧に女子って訳ではないのかもしれない。所々女性寄りだけど、根幹は男性とかそういうパターン。
「……あのさ、普通に男の格好して来いよ。はたけ身長あるし顔いいし」
「うみのくん、俺の顔いいって思う?」
オレのアドバイスには答えずに、はたけカカシは答えづらい質問をぶつけてきた。人に見つからないように狭い自転車置き場を通っているため、逃げ場がない。
「何だそりゃ、嫌味か」
冗談交じりに返しても彼は首を振ってまた真剣な顔をする。
「ううん、興味。俺の顔好き?」
男に訊ねる質問としてどうかと思う。折角仲良くなれたのだからこの関係を崩したくない。ナルトが懐いてる人でもある。オレは卑怯ながら曖昧に誤魔化した。
「綺麗な顔立ちだとは思うよ。好きか嫌いかは分からない。そもそも嫌いな顔ってあるのか?」
はたけカカシはオレの質問には答えずに、
「俺はうみのくんの顔好きだよ」
とだけ言った。
沈黙。
そのまま一言も言葉を交わすことなく昇降口に到着した所で、はたけカカシがいつものボソボソ喋りに戻った。
「教室にはバラバラに入ろ。女の子は変な風に勘違いするから」
オレはそうだな、と返事をしてはたけカカシの背中を見送った。
* * *
一時間同時に行方を眩ませたのはやはりまずかったかもしれない。容赦ない好奇の視線を払い除け、オレは担任の事務連絡が終わるとすぐに正門まで駆け出した。
「へえ、こっち側ってこんな道なんだ。……見え方も違う」
大通りからナルトの住む地区への道へ入ると、大きな家が立ち並んでいた。その上道が入り組んでいる。家が道に倣って建つのではなく、道が家に倣って造られている印象を受けた。
「迷わないで辿りつけるかな」
キョロキョロしながらあまり意味を成さない標識を横目に歩を進める。あれ、だけど……。
「こっちに、駄菓子屋?」
角を曲がるとそこには確かにひっそりと駄菓子屋が建っていた。店先にずらっと並べてあったお菓子が宝物のように見えた。
この店の右の道に入って、二つ目の分かれ道をまた右。
これは何の記憶だろう。
不思議な感覚に戸惑いながら、その通りに体が動いてしまう。
そこからずっと歩いて赤い屋根の家の左の道。
果たしてそこに少々くすんだ赤い屋根の豪邸があった。迷わず左に行く。
突き当りを右に曲がると、真正面に―――
「カカシの、家」
先程フェンス越しに見た家がそこにあった。意味が分からない、これはいつの、何の記憶だろう。
パニックになりながらもそのままナルトの家のチャイムを鳴らした。ナルトは腕を痛めない程度に勢いよくぶつかって来た。よしよしと頭を撫でてやる。掌でがっしり覆った頭は想像以上に気持ち良かった。
「イルカ兄ちゃん迷わなかった? この辺郵便屋さんもよく迷って道訊いてくるんだ」
「あ、ああ。何とか平気だったよ」
何とか、どころか体が覚えていた。頭の中に幼い二人子供の歌声が響いて、時々楽しげな笑い声。片方は落ち着いたメロディを奏で、もう一人はひどく調子外れている。後者はオレに違いない、今でも歌は苦手だ。では前者は?
「大通りから来る時の覚え方があるから教えてやる! 一つ目の角駄菓子屋さん、右の道から二つ目を右、ずーっと行って赤い屋根。左に進んでぶつかって、右に曲がったら俺の家……。これがカカシ兄ちゃん家に行くまでの覚え歌だってばよ。昔俺とサスケに教えてくれた!」
「はたけが?」
「うん。昔遊びに来る友達のために考えた歌なんだって」
カカシん家まで行くの、オレしょっちゅう迷いそうになる。
そう? うーん、ずっと住んでないと難しいね。イルカが来てくれないと嫌だから、覚えやすく歌にするね。
歌作るの? オレも歌う!
うん、僕とイルカで歌うんだよ。
カカシは歌も作れるし、女だったらいいお嫁さんになれるな!
男の僕じゃダメなの?
うん、女の子がいい。カカシは綺麗だからお嫁さん似合うよ。
そっか。じゃあ僕女の子になる。
本当? じゃ、カカシは俺のお嫁さん。
ありがとう。絶対の約束だよ。
任せとけ!ゆびきりげんまん……
「俺ん家やサスケん家に来たい幼稚園の友達には皆……って、イルカ兄ちゃん何で泣いてるんだ? どこか痛いのか?」
思い出してしまった。子供の時分、言霊の力で知らずに誰かを傷つけ縛りつけていたことを。気づいてしまった、律儀に守っていただけの彼を今も切り裂いていたことに。
「どうしよう、どうしようナルト。オレ、カカシに、カカシを……」
顔どころか指の先まで冷たい。この夏の日差しの下で、オレは寒気を感じていた。ナルトも瞳に不安を浮かべている、目に見えてオレの冷たさは伝わるのだろう。
「カカシ兄ちゃん? カカシ兄ちゃんが何?」
ナルトがオレを揺する。そしてカカシの名を呼ぶ。その度に切なくなって体の底からとめどなく涙が溢れてきた。
「だいじょ……ぶ」
「大丈夫じゃないでしょう、冷えてる」
低く唸るような声がしたと思ったら背後から掌を取られた。
「カカシ……ごめん、オレ」
喉の奥が詰まってそれ以上言葉を続けられなかった。口の動きだけでも馬鹿の一つ覚えみたいに謝罪を繰り返す。謝っても謝っても足りないし、どうにかなるものでもない。それでもごめんとしか言えない自分が情けなかった。
「ナルト、イルカは俺の家に連れてくから。これアイス、食べ過ぎるなよ」
表面に汗をかいたビニール袋をナルトの胸に投げると、カカシはオレの腰をそっと支えてくれた。いつの間にかオレを支えるのと逆側の肩には二人分の鞄が引っ掛かっている。
「う、うん。イルカ兄ちゃん、とにかく元気出すってば」
ナルトに返事をしてあげたいのにオレの口からはカカシへの言葉しか出なくて。
「ごめん、ごめん……ごめんなさい。傷つけてごめんなさい」
「いいから。こっちだよ」
カカシに支えられてナルトの家の庭を出た。俺は数年振りにこの大きな屋敷の芝を踏んだ。青い匂いが記憶をどんどん引きずり出して止まらない。
白っぽい景色の中でいつも隣にいた彼のことをどうして忘れてしまったんだろう。
* * *
カカシの部屋に連れて来てもらって丸いクッションとオレンジジュースを渡された。
彼の部屋は乙女乙女もしておらず、かと言って漢臭くもなく、中性的でどことなく無機質な空間だった。昔二人で遊んだこの部屋はもっとおもちゃに溢れていたような気がする。
「クッションぎゅってすると落ち着くよ」
「うん……ありがとう」
やり切れない思いをクッションにぶつけると確かに体の緊張が和らいだ。オレンジジュースを少し口に含んで嚥下するとホッとして喉の痙攣も軽減される。
「昔からオレンジ好きだったもんね。――思い出したんでしょう?」
オレは首を縦に振った。カカシに勝手に女の子になるように押し付けて、尚且つそれを忘却して彼を嫌悪した。
「オレ酷いことたくさん言った。カカシはずっと待っててくれてただけなのに」
嫌われても殴られても文句は言えないよ、と続けると、カカシはオレの両の手をまとめて包み込み、昔のままの綺麗な顔をキリリと引き締めて言った。
「そんなこといいの。ね、イルカは男の俺でも結婚してくれる?」
初めて恋をしたのがカカシだった。子供なんて自分本位だから、カカシが女の子になってくれれば二人の子供が出来ると信じて疑わなかった。ナルトが『サクラちゃん』に対して両親と同じように「愛してる」と言い合えるようになりたいと願ったのと同じように、オレも両親のような関係をカカシと作りたかったんだ。
「うん、いい。待たせてごめん」
オレの返事にカカシが満面の笑みを浮かべた。オレは表現なんてあんまり知らないけど、「花が綻んだように」っていうのは多分こういう表情のことだと思う。この人はイルカ、イルカと手を繋いでくれた人。オレから切った縁を話さずにいてくれた人だ。
「男でもいいって言ってくれた。昔はいくら頼んでも頷いてくれなかったもん。『女の子じゃないとダメー』って。何でダメだったの?」
「だってオレ、カカシとの子供欲しかったんだもん。男同士じゃコウノトリが運んでくれないって母ちゃんが」
恥ずかしくてしょうがなかったけど素直に吐露した。照れ隠しでオレンジジュースをがぶ飲みする。甘酸っぱくて懐かしい味がした。カカシの家に行くとこのちょっと特別なオレンジジュースを出してくれるのが嬉しくて、オレは自宅にカカシを呼ぶことは少なかったな、なんてことを思い出す。
「本当? 嬉しい!」
カカシがコップを持ったままの俺に正面から抱き付いて来た。見た目以上に筋肉がしっかりしている。十数年ぶりのカカシの感触を確かめていると、太ももに何やら不穏なものが押し当てられた。ギクリとオレの体が強張ると察したのか、カカシは自然にコップを机の上に避け、眦を下げてとんでもない要求を突き付けた。
「ね、子供作ろう?」
「え、無理だろ?」
即答した。だってカカシは子供を作れる体にはなれないし、当然オレもそう。オレの拒絶にもカカシは諦めなかった。瞳は雄弁だ、引いてなるかという確固たる意志が見え隠れする。
「出来なくてもいいからセックスしよう。もう十年以上待ってたんだから。一緒に怪獣ごっこしてる時代からセックスしたかった」
「へ」
綺麗な顔の天使みたいな子だったはずだ。猫みたいな髪質が好きでさっきナルトにしたみたいにことあるごとにぐりぐり撫でてた。そんな天使がセックスなんて行為を、意図を持って?
「これでもう会えないって思ったら堪らなくなって、ついイルカのお尻に指突っ込んじゃったら、イルカってばビックリして気絶しちゃったんだよね。もしかしたらそのせいで記憶飛んじゃったのかも」
カカシが悪戯っぽく微笑んだ。って待て。不穏な、出来れば聞き逃したかった単語をオレの耳は拾ってしまった。その途端封印されていた最後の記憶の蓋が開いてしまう。
イルカ行っちゃうの?
うん。お引越し……
もう会えないの?
カカシと離れたくないよぉ。
僕も、イルカともう会えないなんてやだ!ここにいて!
でも、父ちゃんと母ちゃんが四時までに帰ってきなさいって。
……イルカ!!
え、な、何でズボン下ろすの? パンツも? え、や、指って、ああああっっ!
イルカ、好きな人同士はこれをするの。僕イルカのこと好きだから……あれ、イルカ?
痛い……抜いて……カカシ…………
呆然とするオレに構わずカカシは前のめりにり、キラキラと目を輝かせて様々なことをまくし立てた。今までの口数の少なさが嘘みたいだ。
「もう、イルカの顔見るだけでシたくてシたくて大変だったんだから。変に喋ったら『ヤりたい』って口走りそうになったし」
「はあ」
実際嘘だったようで。勇気とかそういう類じゃなかったのか。
「教室で笑ってくれた時押し倒さないように自分を堪えるの大変だったんだからね。あんな顔、もう他の人に見せちゃダメだよ」
「へえ」
「うちの裏で会った時も勃起してるの見られないように何て言おうかってすっごく悩んだ。日本語って曖昧に出来ていいよね」
「ああ」
女性物の下着を穿いてるとかそんなことを思っていたら全く別のベクトルの変態だった。
「もう両思いだし、いいよね? 男の俺でいいんだもんね?」
「うん。――え?」
おざなりに返事をしている内に、オレの手首はカカシのスカーフで縛られていた。カカシは忍者の末裔かもしれない。
スカートから筋肉質な足を剥き出しにして迫ってくる銀髪セーラー服に押し倒された後何をされたのかは、どうかオレの精神の安定のために記述しないことを許して欲しい。