カカシはバスの運転手です。
朝が壊滅的に弱いので、昼過ぎから夜中までのシフトをいつも与えられています。
のっそり起き上がり、そこそこに支度をして出社します。
単調な仕事の繰り返しで、唯一楽しみなのは平日最終バス。
足の爪先から頭の天辺までをあたたかくしてくれるあの人が乗るから。
あの人の名前はうみのイルカといいます。
いつもオフィス街の厚焼ビル前から乗り込み、終点のうたたね海岸で降りていくので、出勤時間は長そうです。
カカシがうみのさんに恋をするまで、何度も何度も乗降していきました。
そうして知らぬ内に日々貯えられたうみのさんへの愛は突然自覚され、過ちを犯したのがつい先日。
それはカカシの平坦な人生の中で、たった一つの特異な思い出となりました。
偶然が重なり続け、二人きりとなった車内。静かな寝息が悪魔の囁きを増幅させました。
仕事中の証である白い手袋を脱ぎ捨てた瞬間、あとは本能が彼を動かしました。
口づけを落としたカカシは、うみのさんが起きていたことを知りません。
突然男に接吻されたうみのさんは、美形な運転手の真意を知りません。
互いが何も知らぬまま、今日もバスは止まらずに運行中だったのですが――――
最近、うみのさんの様子がおかしいことにカカシは早くから気づいていました。
「ありがとうございます」と声を掛けてくれるものの、それはか細く聞き取れるか聞き取れないか程度のものになりました。
うみのさんの表情を見たくて顔を上げても、足早に席に向かうか、さっさと下車してしまうのです。
この事態にカカシはうーんと首を傾げました。
うみのさんが突然よそよそしくなってしまったのは何故でしょう。
あの時実は起きていた?
頭から一気に血の気が引きますが、その選択肢は除外します。
何故なら、口づけをした当日はいつもの通りの彼だったのですから。
原因が分からずひたすらぼんやりしていたら、何度もバス停を通り過ぎそうになりました。
クラクションを鳴らされることが増えました。
それでもカカシは考えます。決して、本人に聞くことなどできません。
彼と自分は、あくまで『乗客』と『運転手』なだけなのですから。
一方その頃うみのさんも考えていました。
いつもの運転手はいつもの表情を変えないまま、相変わらずバスを運転しています。
うみのさんが少し遅れてもちゃんと待っていてくれています。
彼が何を考えているのか、また自分がどうしたいのかも分からないのでもやもやとした気分が晴れずにいました。
「貴方はオレのことが好きなんですか?」とも「あれは何かのゲームの一環ですか?」とも聞けず、ただただバスを乗り降りする毎日。
せめてまた二人になれば何かしらアクションを起こせそうなのですが、終点まではいつも猫目の男性が一緒です。
仕事中の運転手に話しかけることなどできません。
仕事をしていても、帰りのバスが気になって集中できません。
うーんと首を傾げて筋も違えました。悩みに悩んで、うみのさんはようやく決意しました。
車を買おうと。そしてバスを利用する最終日にどんな手を使ってでも問いただそうと。
うみのさんは本来行動力のある男性なのです。
カカシはしょんぼりした気持ちを抱えながら単調な日々を送っていました。
うみのさんは最近いつも以上に疲れているようで、ふらふらバスに乗り込みむと終点まで熟睡しています。
視線もうつろで、もう一介の運転手などまるで目に入っていないようです。
当然のことのはずなのに、寂しさで胸が凍ります。
カカシはある日、大学の先輩から連絡を受けました。
バスの運転手を辞め自分の下で働かないかという誘いの電話です。
どうやら起業するのにカカシの持つ資格が必要らしいのです。
悩んだ挙句、その話に乗ることにしました。
そして決めました。
バスを運転する最後の日に、どんな手を使っても聞き出そうと。
カカシは今日までバスの運転手です。うみのさんは今日までバスの乗客です。
ドキドキと胸を高鳴らせながら、一人二人と乗客が降りるのを数えていきます。
猫目の男性がバスの後部座席に陣取っているのを二人はそれぞれ苦々しげに見つめました。
さてさて、どうなることでしょう。
闇をバスのヘッドライトが切り裂いていきます。
一人、二人と乗客が降りていきます。
カカシは手袋が染みるほど汗をかきながら、うみのさんは体を強張らせ、そして猫目の男性は車内の異様な空気に全く気づかずのったりと、それぞれバスが終点に到着するのを待っています。
女性が降りていきました。次のバス停が終点です。
うみのさんは、猫目の男性をやり過ごすために、こてんと寝たふりをしました。
その様子をバックミラーで確認したカカシは、これでうみのさんに話し掛けるチャンスができたとホッとしました。
猫目の男性は、今夜借りるAVを脳内で選んでいました。
ぷしゅう。
周囲を通る車は一台もありません。
誰に気づかう訳でもなく、バスはいつも通り扉を開けます。
騒がしいのは各自の心臓だけ。
冷静に到着のアナウンスを繰り返すカカシも、すうすうと精一杯規則正しい寝息を装ううみのさんも、極力ゆったりと下車の準備に入る猫目の男性も皆心臓を高鳴らせます。
カカシの脳内では、猫目の男性をさっさと降ろしてうみのさんを起こしに行く算段ができています。
うみのさんの脳内では、猫目の男性が下車した後に運転手に話しかける予定です。
しかし、この場に一番留まるべきではないその男性は、少々の千鳥足をととっと止めました。
うみのさんの席のすぐ脇で。
「おにーさーーん、終点ですよー」
彼はとても心の優しい人なのでしょう。
職場でもきっといい先輩であるはずです。
しかしその気遣いは、今この二人には不要でした。
ぎゅっと瞼を固く閉じるうみのさん、起きてしまいやしないかとひやひやする運転手。
中々目を覚まさないのでより激しく揺り動かす男性。
動き出したのは、もうすぐ運転手でなくなる男でした。
運転席から立ち上がりツカツカと二人に近寄ると、そのまま猫目の男性の鞄を扉から放り投げました。
『えっ!?』
二人分の困惑した声が上がります。
猫目の男性は酔いを忘れて外へ駆け出しました。
そして、何事もなかったかのように扉は閉じられます。
「起きてたんですね」
真正面に立ちじっと見下ろす運転手の声は、車内アナウンスのように無感情です。
うみのさんは視線を合わせることができず、それでもやっと「お話したいことがあったので」とだけ絞り出すように言いました。
「私もです」
そこからはただただ二人とも無言でした。
頭の中では言葉が目まぐるしく生まれては消えていきます。
しかし、どれも『バスの運転手』と『その乗客』には似つかわしくない切り出し方でしかありません。
気さくすぎるのも、かといって硬すぎるのも相応しくないのです。
長い時間をかけようやく言葉を見つけ出したのは、うみのさんでした。
「車がね、明後日納車されるんです」
その一言で、カカシの覚悟は呆気なく崩れ去りました。
うみのさんが疲れていたのは車を買うために働いていたから、うみのさんの挨拶がよそよそしくなったのはもうすぐ不要になるバスだから。
もう何も聞きたいことはありません。
「そうですか。おめでとうございます」
うみのさんはバスに乗らなくなります。
今なら、とカカシは一つだけ伝えることにしました。
「私も今日で運転手を辞めるんです」
さよならの代わりにするつもりでした。
あの口づけだけ残れば後は望まないつもりでした。
けれども、ほんの少しかき集めた勇気でうみのさんを見やって、カカシは固まります。
うみのさんは蛍光ランプの下で顔色を失っていました。
表情も失っています。
彼だって車を買うからこのバスとも自分とも縁が切れるのにどうしてこんな反応をするんだろう、とカカシは自分か悲しいのも忘れて思いました。
そして勢いで、その通りに訊ねました。
平手が飛んできました。
目の前がチカチカして、頬がジクジク痛みます。
でもそれよりも、叩いた方のうみのさんの方がとても辛そうなことの方がカカシの胸を切なくさせます。
うみのさんは「わけわかんねぇ……」と小さく呟くと、カカシの横をすり抜けてバスの乗降口に向かいました。
しかし扉は固く閉ざされています。
「開けてください」
涙声の向こう側に、別の声が聞こえます。
『どうしてあんなことしたんですか』
「会社に通報しますよ」
『どうして何も言ってくれないんですか』
「何とか言ってください」
『悪ふざけだって一言言ってくれれば……っ』
長年カカシと頑張ってくれたバスが最後にかけた魔法でしょうか。
その魔法は、ついさっき封をしたはずの気持ちを容易く掬い上げました。
バスの横を追い越していく車両の灯りが、運転手の横顔を照らします。
「貴方に恋をしていました」
一瞬で過ぎ去ったテールランプに、運転手の銀髪と熱を持った瞳が浮き彫りにされ、そしてすぐにまた蛍光灯の灯りだけが残ります。
ぱちくりと瞬きをしたうみのさんは、首から上をみるみる赤くしていきました。
頬っぺたも耳も鼻の頭も目の淵も、全部が真っ赤っかです。
「変です!」
変なのはその通りなので「そうですね」と答えると、うみのさんはまた怒ったような声を出しました。
「男なのに!」
「会話したこともないし!」
ぐうの音も出ません。そもそも今日カカシが決意していたのはうみのさんがよそよそしかった理由を聞き出すことだけで、告白するつもりもなかったのでもうこれ以上何も言えません。
「寝てるとこ、き、き、キス、するし」
こっそりしていたはずの口づけもバレていたと知り、もう外を歩けません。ひきこもります。
「乗ってる人、追い出すし」
あれは後悔していません。
でもそこまで変だと分かっているのに、どうしてあの時そのまま何も言わずバスを降りて行ったのでしょう。
その後もバスに乗り続けてくれたのでしょう。
カカシの中に疑問が首をもたげました。
「それでこく……はく、とか。変」
うみのさんの言葉が尻すぼみになっていきます。
それでもうみのさんは踏ん張りました。
会えるのは最後だから。
最後にしたくないから。
「嬉しいオレも、変」
カカシはバスの運転手を辞めました。
それでも毎朝、スーツを着て白い手袋をはめます。
じっと運転席で待っているとバタバタと扉の開閉する音がします。
「遅くなりました」
「待ってませんよ」
一人乗せると、エンジンをかけて車道へ出ます。
「折角車買ったのにずっとペーパードライバーですよ」
うみのさんは助手席で揺られながらそんなことを言います。
「俺、イルカさん乗せて運転するの好きです。楽しい」
バス停を淡々と告げるだけじゃなくてお喋りできるから、とカカシは続けます。
ぽろっと零した愚痴をストレートな愛情で返されるので、うみのさんはいつも困ってしまいます。
付き合ってみると運転手はとても不器用で扱い辛い生き物でした。
幸せを諦めてる節があって、交際当初などよく頬を抓ってるのを目撃したものです。
積極的なのか消極的なのか分からない生き物相手に、うみのさんは健闘しました。
生来男前で努力家なのです」
しかしその結果、愛の言葉を無意識にドスドスぶつけてくるモンスターを生み出すこととなったのは皮肉な話です。
うみのさんは毎度毎度応えるわけではありません。
でも時折、たとえば付き合うきっかけとなった晩を思い出した時など、本音を少しだけ見せることにしています。
頬に触れる布と、その後に震える指。唇に、同じく震える暖かなものが押し当てられた感触。
銀色の折り畳まれた睫毛はとても綺麗でした。
「……オレも、カカシさんの運転してる姿好きです」
そう言ってうみのさんはハンドルを握る白い手袋の上にそっと自分の掌を重ねました。
めでたしめでたし