駅員×リーマン

 面倒な案件がようやく片付いて気が抜けてしまったのか、ほぼ空席のローカル線を降車し改札へ向かおうとしてる途中ふっ……と浮遊感がして、足下を見ると片足が宙を踏んでいた。
「嘘っ!?」
 そのまま地を求めて体が傾く。
 やけに時間がゆっくりに感じられるのに、足は地面に戻らない。
 夜の闇の狭間に微かに見え隠れする線路はでこぼこしていて、大なり小なり怪我は免れないだろう。
 落ちる、と来るべき衝撃に備え身を竦ませると、落下の痛みではなく力強い何かにぎゅっと抱き寄せられ、 両足が固いコンクリートを踏みしめた。
「大丈夫ですか……?」
 耳元に合成繊維の感触とくぐもり掠れた声。腰に回された腕はお馴染みの緑の制服で、白い手袋が薄暗いホームでも眩しい。顔を上げると顔の半分をマスクで覆った背の高い駅員の男性が、帽子の下で眉を八の字にしてオレの顔を覗き込んでいた。隙間から覗く髪は美しい夜の色をしている。
「あ、は、はい! ありがとうございます!」
 その近さとアクシデントの余韻で頬が火照る。慌てて体を離し腰を折り曲げようとすると、駅員に片手でさりげなく遮られた。
「いえ、ご無事でよかった」
 ニコリと微笑むその人に後光が差して見えて――――
 オレは男で、そういう趣味もないのにうっかり恋に落ちてしまった。
 改札までの間も彼はオレの背をさりげなくサポートしつつ付き添ってくれる。エスコートされているみたいで面映い。
「あの、もう大丈夫です!」
「そうですね。本日も当路線をご利用いただきありがとうございました。帰りの道中お気をつけて」
 そのまま、お互いに頭を下げあって別れた。
 こっそり確認した名札で名前はなんとか把握している。その人の名を頭の中で何度も繰り返しながら帰路に着いた。呼ぶ度に、心の中で一等の宝物のように彼の名前が煌く。
 それ以来、毎日の通勤中にその人を探すのが日課となってしまった。
 叶わぬ恋とは知っているし思いを押し付ける気はない。向こうは職務としてオレを助けたこともちゃんと分かっている。
 だけどせめて一目だけ、という気持ちだけは止められなくて、朝の満員電車や帰りのガラガラの車内をキョロキョロと見渡し溜息を吐くのが恒例となってしまった。


******


 その日の朝オレは明らかに体調が悪かった。
 すし詰めの車内でとうとう目眩が堪えきれなくなり、会社の最寄り駅の二つ前で転がるように飛び出しその場に蹲る。
 そのままひたすら目眩をやり過ごしていると親切な誰かが駅員を呼んでくれたらしく、後ろから「立てますか?」と低く通る男の声が掛けられた。
 首を振ると倒れてしまいそうだったので手で僅かに拒否の意を示すと、駅員は「仮眠室がありますからそこで横になりましょう。今車椅子を運んできますね」と言って立ち上がる。
 行かないで。掠れた声のあの人じゃないのは分かっているのに、離れて欲しくなくて手探りで裾を見つけ、摘む。駅員はそんなオレの手を包み込んでさすると、「すぐですからね。貴方が横になってる間もずっとついてますから」と殊更優しく語りかけてくれた。
 頭は相変わらずぐるぐると回転するような眩暈が続いていたけれど駅員の声色に安心して、オレはストンと手を下ろした。
 すぐに戻って来た駅員の助けを借りてなんとか車椅子に身を任せると、職員用の本当に小さな詰所のような場所に案内されベッドに横たえられた。スーツの上着は駅員の手で壁のハンガーに掛けられる。
「会社に連絡しましょう。社員証等はありますか?」
 朝の忙しい時間で彼だって他の業務があるはずなのに……このローカル線の駅員は彼以外にも親切な人がいっぱいだ。
「スーツの内ポケットに――――」
 身を起こそうとすると布団の上からぽんぽんとあやすように叩かれる。
「起き上がらなくて大丈夫ですよ。ゆっくり眠ってください」
 その柔らかい声に逆らえなくて、オレは意識を深く落とした。


******


 目を醒ますと髪は解けてシャツのボタンも上部がいくつか外れている。腰も楽に感じる。首を動かすとゴムとベルトは隣の椅子の上にキチンと揃えられていた。寝苦しくないようにしてくれたのだろう。
「ああ、起きたんですね。眩暈はどうですか?」
 椅子の反対側から声がして慌ててそちらを見ると丸椅子に腰掛けた駅員が本を閉じて微笑んでいた。若く見えるのに髪は真っ白で、悔しくなるくらい良い男だ。
 モデルのような駅員に従い頭を軽く振ってみるが今朝のような酷い回転はない。
「はい、大分良いです」
「良かった。それとすみません、服と髪を弄ってしまったのですが……」
 駅員が眉を寄せるのが逆に申し訳なかった。何も悪いことはないのに。
「大丈夫です。気遣ってくださったんですよね、ありがとうございます」
 お蔭でだいぶ楽です、と付け加えると駅員はホッと息を吐いた。随分と親身になってくれていたようだ。
「いいえ。あ、そうそう、会社に連絡したら森野さんという方が出て、今日は日曜日の代休という扱いにすると伝えて欲しいと伝言を承りました」
「どうもすみません。あの、お忙しい時間にオレ迷惑を掛けてしまって……」
 あの時間は最も混み合うのは身をもって知っている。人数も足りないだろうに、オレは彼を引き止めた。正気に戻った今では申し訳なさと恥ずかしさで沈んでしまいたくなってしまう。
「いいんですよ、混み合う最後の電車でしたし、通勤ラッシュを過ぎるともう仕事がないも同然なんです。しがないローカル線ですから」
「でも……」
「それより起き上がれますか? これでまだ眩暈がするようなら救急車を呼びましょう」
 駅員はオレの言葉をやんわりと遮り、椅子から立ち上がってベッドの側に寄り腰を屈めた。起き上がるのを手伝ってくれようとしているのは分かるが、顔が近い。オレが好きなのは掠れ声のあの人一人なのだけど、綺麗な顔が近くにあるというのは緊張するものだ。
 きっと女性にモテるのだろう。所作が手馴れている。
「この路線の方は皆さん親切ですね」
「皆さん?」
 駅員は首を傾げた。そうだ、あの人のことを訊いてみよう。そんな考えがふっと浮かんだ。同じ職場なら特徴を挙げればきっと分かるに違いない。あの時以来全く会えていないからせめて勤務がいつなのか知りたい、なんて、自分の心理がちょっとストーカーみたいだ。
「ええ、以前もここの駅員さんにお世話になって。オレその人にもう一度会ってお礼がしたいと思っていたんです」
 この時、駅員が黙ってしまったのに気づけなかった。ベラベラと話し続けたオレが愚かだったのか。
「そうだ、貴方にもお礼を」
「そいつにお礼って何する気?」
 低い、地を這うような声にぞわっと鳥肌が立つ。
「え?」
 顔面に影が落ち、ギシとベッドが鳴った。駅員がオレの上に乗り上げて見下ろしている。
「貴方電車に乗る度にキョロキョロしてたけどそいつを探してたんですね。てっきり毎朝電車で会う人の中に想い人がいるのかと勘違いしてました。だからコソコソ隠れたりしちゃったけど、まさか同僚だったなんて……」
 駅員が小さく舌打ちをした。オレはというとみっともなく震えるだけだ。今の状況が一体どういったものなのか、何が駅員のスイッチを入れてしまったのかが分からない。
 そんな様子も更に駅員の苛立ちを募らせたのか、いきなり顎を掴まれ、耳元に唇が寄せられた。外されない手袋の感触が、心細かったオレの手をさすってくれたものと同じなのが余計切ない。
「そいつにお礼する前に俺にしてよ。抱かせて」
「は? あの、オレ男……」
 駅員の声の温度がどんどん冷たくなる。さっきまであんなに優しく、温かかったのに。
「そんなの知ってるよ。でもこの路線の駅員男しかいないからアンタの想い人も男でしょ。あんな恋する瞳しててゲイじゃないなんて言わせない」
駅員の手がオレのシャツの前を荒々しく開き、乳首を摘んだ。ひっと声を上げるとまた眉根を寄せる。
「嫌だったらそいつに抱かれる予行練習だと思いなよ。名前でも呼べば?」
 何が何だか理解が追いつかない。
 ただ、抵抗の二文字が浮かんだ時には裸に剥かれていた。
 二人分の重さを受け止める粗末なベッドが大きく軋む。他の駅員が近寄ってくる様子もない。どうやらラッシュを過ぎたらというのは事実らしい。
「や、だめ……あっあっ」
「いいじゃん、気持ち良さそうだよコッチは」
 駅員がオレとヤツのペニスを纏めて扱き上げる。無論素手で。オレは全裸で、駅員はチャックから局部だけを露出した格好だ。ケツに触れる気配はないが、時間の問題だろう。
「呼んじゃいなよ名前。知らせてあげるから、男に懸想されてるって」
 駅員は幾度もオレに彼の名を吐かせようと責め立ててきた。何度か漏らしそうになる愛しい名を、喉の奥で潰し続ける。
「やだ、あ、やだぁっ」
 しかし、オレが頑なに拒み続けると駅員の声のトーンが徐々に変化を帯びてきた。
「ね、お願いだから……っ」
 どうしてあんたが苦しそうなんだ、と思わず噛み付きたくなるがそんな元気はない。血液は全て駅員の手に弄ばれまくった下半身へ集中する。
「諦めさせてよ、うみのさん」
 泣き出しそうな声と、ぐりっと爪で先端を圧迫されたら、もう我慢できなかった。
 せめてあの人の手だと思いたくて。
「ん、やああっっ! はたけ、さん……!」
「なん、で俺の名前……!?」
「ふへ?」
 腑抜けた声と共に、オレも駅員も呆気なく射精した。

******


「俺は……俺は何てことを…………」
 駅員、いや、はたけカカシさんが涙と鼻水をボロボロ垂れ流しながら何度もうわごとのように呟く。
 はたけさんは射精後わたわたとウェットティッシュでオレを拭うと、股間を出したまま床に這いつくばって土下座してきた。
 曰く、彼はオレが彼に恋に落ちたのと同時にオレに好意を持ったそうな。ただオレと同じで想いを伝える気はなく、遠くから見ているだけだったと。
 ところがオレがいつもそわそわと誰かを探している素振りなので勝手に失恋したと思い込んでいたらしい。どうもオレは一度視線が合ったらしいのだが、別人だと判断してガッカリした表情で他を探し始めたそうだ。叶わぬ恋と早々に諦めようとしていたところ、オレがどうも同僚の男に恋をしていると勘違いし頭に血が上ったそうだ。ただ、犯す勇気はなかったらしい。
 そんな話をごめんなさいごめんなさいと泣きながら語ってくれた。
 掠れ声は風邪のせいだったそうだ。髪の色が違って見えたのは多分彼の銀髪が夜の闇に染まったからだろう。
「はたけさん」
「は、はひぃっ」
 はたけさんはバネみたいに立ち上がった。まだペニスが露出していて寒々しい。
「あの、下寒くないですか?」
「あ、やばっ、すみませんっっ」
 ガバッとチャックを上げようとして皮を挟んだらしく悶絶している。さっきまでのスマートさはどこへ消え去ったのだろうか。
「あの、はたけさん」
「ふえ、ごめんなさいっ」
「まだオレを好きでいてくれてますか?」
 はたけさんが停止した。そりゃそうか。
 だけどずっと探してたんだ。
「そりゃレイプされかけたのは腹立ちましたけど、オレだって貴方を好きだったんです」
「嘘……」
 口からエクトプラズムが抜け出しているはたけさんに、オレは社会人らしく提案をした。
「とりあえず、名刺交換しましょうか」
 この先オレ達の前に線路が続いているかどうかは、まだ誰にも分からない。



Novel Top