顔が近すぎる。
その照れたような表情、何なの。
まさか、俺達のこと知らないなんて言わないよね。
拒まない貴方も、貴方だ。
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「げ、将軍だ」
草叢に向かってイルカ先生が呟いた。
さらさら風に靡く名もない雑草の山の前に、二本の鎌を振り上げた蟷螂が陣取っている。
夕焼けのせいで色が不確かな動かないそれは、普段ならば見過ごしてしまうようなものだった。
「将軍って?」
「蟷螂は将軍なんです」
「へぇ」
いつもならば気がつかないことにまで目が行くのは、今がいつもじゃないから。
「オレこいつの腹が気持ち悪くて嫌いなんですよ」
「ああ、ぶよぶよしてるもんね」
蟷螂の本体をそのままに、話題にだけ載せて歩く。
イルカ先生がいかに蟷螂の腹が苦手なのかと、俺のそれに対する意見で一冊の薄い本になりそうな程度の議論が交わされた。
そんな風にしてずんずん歩いて、人気のない、夜の闇の入口を背負う門まで来て止まる。
「じゃあ行って来ますね。部屋散らかさないでくださいよ」
背中の荷をよいしょっと一度負い直したイルカ先生が、俺の額宛を小突いた。
先生が一晩宿直をして帰ってくると、俺が駄々っ子のように部屋を散らかしているから今回も心配なのかもしれない。
だけどね先生、それは無言の「夜勤しないで」のアピールなんだよ?
教えるつもりは毛頭ないから、俺はいかにもやる気のない返答をした。
「はいはーい、気をつけて。ヘマしないでくださいね」
先生がぶーぶー文句を垂れながら、闇の方へ消えていく。
その背中が見えなくなったところで、俺は踵を返し微かに残る橙色の残滓の方へ戻った。
イルカ先生の出立前にそんなことがあったんだ、だから。
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「ただいまー」
二人で暮らす一軒家にちょっと疲れた声のイルカ先生が帰ってきた。行って帰ってあの日から五日。
俺はぱたぱたと玄関へ駆けて彼を労う。
「おかえりなさい、お疲れ様。風呂沸いてますよ」
「ありがたい、もう風呂が恋しくて恋しくて」
脚絆を解いてサンダルをポイポイと脱ぎ去ったイルカ先生は、人心地ついたのか顔も体もふにゃふにゃとしている。
からかい半分で「風呂だけ?」と訊ねると、ほんのり頬を赤らめて「カカシさんの方が……」なんて素直な返事が返ってきた。
「可愛いこと言っちゃってー。嬉しいから、夕飯のシチューは特盛です」
「やった!」
「タオルとか出しとくから、このまま入っちゃいなさいよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
今日は先生を甘やかす。甘やかしてでろでろにして、明日の休暇は別の意味ででろでろになるつもり。
先生は野菜サラダには青じそドレッシングが必須、トーストはカリカリなぐらいが好き、。
ところが、元々イルカ先生が使っていたオーブントースターは火力が滅法弱いのだ。
したがってパンをカリッカリに焼くにはものすごーく時間が掛かる。
じりじりとパンを焼く間、俺はシチューをとろ火にかけひたすらぐるぐるかき混ぜることにした。
白い液体が鍋の中でぐるぐるぐるぐる。
べ、別にえっちなことなんか考えてないんだからね!
俺が煩悩をシチューに混ぜ込み尽くす前に、先生が湯船から上がり風呂の蓋を閉める音がしたので、俺はトーストを取り出して火を止めた。
「わ、いい匂い」
「カカシ特製カカシチューです。今なら俺のチューも付いてくる!」
「それはいりません」
ウインク付きの出血大サービスのつもりだったのに、イルカ先生は冷たかった。
「なんで!?」
「どうせ、明日は一日中するんですから」
「もう、イルカせんせったら何でもお見通しなんだから!」
戯れなら配膳を続けているとイルカ先生が「あれ?」と止まった。
「どうしたの」
「将軍が勝手口に張り付いてるんですよ。ほら、すりガラスの向こうにお腹が見える。やなもん見ちゃったなぁ」
それは微動だにしないシルエット。イルカ先生は「やだやだ、早くご飯にしましょう」と台所から逃げて行った。
……まさか、こんなに効果があるなんて。
我ながら美味しく出来上がったご飯と、熟したイルカ先生をたっぷり堪能してぐっすり眠った。
イルカ先生が台所を嫌がるから、俺は飲み物だって率先して取りに行く。
このまま勝手口の向こうにイルカ先生が行かなければいい。
向こう側にイルカ先生が一生気づかなければいい。
大丈夫、将軍が番をしてくれているから。
今日も俺がご飯を作る。飲み物とおやつを運ぶ。かいがいしく、親鳥みたいに。
蟷螂のシールが剥がれていないか確かめるのが、俺の新たな日課になった。