繋ぐオト

 胸糞の悪くなる暗殺任務をようやく終えて里に戻ったのは深夜を回った時間だった。
 身も心も、音さえも凍りつきそうな外気だ。雨雲があったとしたら、ざくざくと雪を落とすに違いない。しかしのっそりと見上げた闇には、いくつもの星座が勇敢さや優雅さを携え煌いていた。天気が崩れることはないだろう。朝から晴れそうだ。
 頭を下げ、血生臭いと感じる呼気を吐き切り、里の空気で全身を満たして歩き出す。
「カカシ、ようやった。二晩休め」「どーも」
 流れ作業のように火影様の御前から自宅への移動を終えると、体が勝手にシャワーを浴びる。熱い湯が立てる湯気は血も、苦悶の表情も、金持ちの身勝手な依頼への憤りも全て覆い隠す。後は寝るだけだね、と頭の端で他人事のように思った。
 たっぷり昼まで惰眠を貪り、他に服もないので規定の忍服を着込む。慰霊碑の前でいつも通りぼんやり佇んでから、帰りに小ぢんまりとした弁当屋で鮭弁当を購入して帰宅した。
 日曜日の昼下がりだというのに客の一人もいないその店に不安を覚えたが、弁当自体は歯に小骨が少々引っ掛かるものの、ふっくら焼き上がっていて割とイケる。添えられた牛蒡と人参の金平も甘辛い味付けが絶妙だった。あそこの弁当屋は当たりのようだ。
 花街に向かうには時間が早いし、そもそもそれ程性欲を持て余してもいない。米を頬に詰め込みながら一週間振りの休暇の残りをどう使うかを思案していると、植木鉢の脇に無造作に置かれた篳篥(ひちりき)入りの黒塗りのケースが目に入った。以前潜入任務のために覚えて以来、触れてもいなかった。今まで気にも留めなかったのにこういう時に見つけてしまうと、何だか無言の圧力を掛けられているような気分になる。
 たまには楽器も構ってあげないと臍を曲げる、か。
 残った鮭を麦茶で流し込んで空になった容器をゴミ袋に放り込む。
 楽器を思う存分奏でても迷惑にならない場所はどこかと考えた時に、まず浮かんだのは里外れの小さな広場だった。湧き水の出る水場とベンチが二脚あるだけの、散歩途中に寄るような場所だ。人家からも離れていて、今までそこで誰かに遭遇したことはない。
 そうだあそこがいい。誰も来ないため口布を下ろしても何も問題がないだろう。
 愛読書には本棚で留守番をしてもらうことにして、よっこいせとのんびり立ち上がった。
 コートの前を全て留めて背を丸める。口布は夏は蒸すけど冬はいいもんなんだよね、と子供の頃から抱き続ける感想を胸に玄関の扉を開けた。


******


 住宅街のそこかしこから里人の生活音がする。これを守っているんだな、と一つ一つの音に耳を澄ますと、赤子の鳴き声が聞こえてきて自然と口元が緩んだ。
 名無しの暗部として日々任務をこなしているものの、その功績から既に他里に名前は知られてしまっている。父親譲りの髪の色はとても目立つので個人特定が容易いのだろう。自分を餌にするという作戦が立てられるためにあえて特徴を隠してはいない。部下の中には心配する者もいるが、広まってしまっているものは今更消せないと言い聞かせてある。
 こうしてただの忍びとしてふらついている今も、特に繕うことはない。人々の意識の範囲外を歩くだけだ。一般生活をしている分には、彼らが気がつくことはない。
 同じようにしてアカデミーを覗いたりもする。あそこは訓練された教員がいるからもっと難易度が高いけれど、それでも要領は同じだ。
 アカデミーにはミナト先生の一人息子のナルトが在籍している。身を呈して現在も里を守っているのに人々から疎まれいて、歯痒い。しかしあの子は良い教師に巡り合えた。彼だけは差別せず、悪戯っ子に育ったナルトをビシバシ叱っている。金色頭のミナト先生の遺した子は、その拳を受ける度に文句をブツブツ言いながら嬉しそうにしていて、微笑ましい。ナルトの前に立てる日が来たら是非彼とも仲良くなりたいと常々思っている。
 彼らの様子を瞼の裏に浮かべると心が凪ぐ。これなら良い演奏ができそうだ。
 歩くうちに人の住む場所を離れ、目的の広場へと到着した。チョロチョロと囁くような水の流れだけが『動』である。
 運んできたケースを開き、篳篥本体と葦舌(した)と呼ばれる、管楽器でいうリードに相当する部分を取り出した。好みの具合にセットして、口布を下ろし数回息を吹き込む。指は曲を覚えているだろうか、さて。
 葦舌を咥え、腹に冬の冷たい空気を溜める。肺活量を必要とするこの楽器の音色は雄雄しく無骨である一方、温もりに溢れているので好んでいる。隣で風情ある龍笛を奏でていた名奏者は、今はその音をどこかの山中で動物たちにでも聞かせているだろうか。
 かつての仕事の記憶が蘇った。首を振って、手の中の竹楽器に集中する。漆塗りの中に空いた穴を手甲を外した指で塞ぐ。
 息と同量の魂を注ぎ込むのだと、雅楽の名人であった男は言った。その域にはまだ達せないために、そっと古曲の譜を辿る。不安定な音が水の音を掻き消し、宙へ広がった。任務のため演奏技術だけを手に入れただけの状態だが、いずれは遊びも覚えたい。
 短い曲を一つ二つ、繰り返し演奏した。未熟な音も、回数を重ねればそれなりに聞けるものになる。太く芯を持ち始めた音色に満足し、少し長めの別の曲へ移ろうという考えが湧いてきて、かつて古人が求愛に用いたという曲を選んで吹き始めた。
 失敗したら始めからやり直そうという軽い気持ちだった。しかし、そうもいかなくなったのは『彼』の突然の出現のせいだ。
「きゅいっ」
 不可解な言葉に葦舌から口を離し、見渡そうとした。演奏に集中し過ぎていてその存在を察知できなかった。自分の気の緩みが情けない。その声の持ち主はすぐ隣にぺたんと座っていた。
 先程思い浮かべたばかりの人が体を左右にゆらゆら揺らしてきゃっきゃと楽しげにしている。
 黒髪を頭の天辺でくくり、顔の真ん中に傷がある。中忍以上に支給されるベストも着用している。間違いない、これはナルトの『イルカ先生』だ。
 呆然として指の動きが止まると、『イルカ先生は』手足をバタバタさせて抗議するように声を上げた。
「きゅーきゅーっ」
 『イルカ先生』は、どうして言葉を話さないんだろう。
「えっと」
「きゅー?」
 きゅうって。小首傾げてきゅうって。この人は本当にあの、「ばっかもーん」と子供達に拳骨落とす熱血な『イルカ先生』なのかと頭を抱える。
 メラメラと教育と仕事に燃えるあの男らしい彼はすっかり身を隠し、好奇心旺盛で無垢な動物や赤ん坊のように、純粋に黒い瞳を輝かせてこちらを覗き込んでいる。
 とにかく、様子のおかしい『イルカ先生』は篳篥のメロディを欲しているということは分かった。
 人に聴かせるのはご無沙汰だ。だけど熱烈なリクエストには答えたい。
 脳内で譜を一通り浚い、指を置いた。
 ひたすら誰かが恋しいなんて想いはしたことがない。亡くしてしまった人達への懺悔の念に縛られているだけだ。
 情感をたっぷり乗せたくてもなかなかできるものではない。
 目だけを持ち上げて『イルカ先生』を伺うと、力が抜けた。鼻からくぅくぅと気持ち良さそうに音を鳴らして眠りこけている。その内カクンと力を無くし、膝に雪崩れ込んできた。
 真昼間にこんな所で眠って授業はいいのだろうか、と心配になったが、そういえば今日は日曜日で休日だ。
 彼の自宅は知らない。かといってこのまま冬空の下に放置する訳にも行かない。仕方がない、とケースに楽器を収め、『イルカ先生』を背負って一番近い別宅に帰ることにした。巻物を保存するための部屋だが、問題があれば引き払えばいい。
 何でこんなことになってるんだろうね、と首を捻りながら霜に持ち上げられた枯葉を踏みしめた。


******


 『イルカ先生』は日が落ちても目を覚ますことなく、一組しかない布団に大の字になってすぴすぴ寝息を立てていた。時たま漏らす寝言は未だ「きゅー」だ。
 置いていけないので不本意ながら同衾したら、案の定翌朝「ひっ」という悲鳴で起こされる。「きゅう」の代わりに「なななな」と怯え、震えていた。二個減ったね、とくだらないことを思う
 彼の様子から察するに昨日の記憶はないらしい。そういう病気なのかもしれない。しかし、突然「あんた夢遊病だよ」と告げても余計怪しまれるだけだろう。
「里外れの広場で倒れてたんですよ。病院とも迷ったんですけど、貴方受付に時々いる人でしょ? 退院手続きとかしてたら今日の仕事に遅れるかなって」
 仕事の話でも出せばちょっとくらい誤魔化されてくれるかなという程度の希望だったのだが。 「あ、そうだ仕事!」
 ……本当にこれで済むとは、忍者としてどうなのか。
 『イルカ先生』は俺の背後の壁に掛かっていた時計の時刻を見て「ぎゃあ」と叫ぶと、外して枕元に重ねておいたベストと額宛を腕に抱えて、がばりと思い切り頭を下げてきた。
「後日お礼に参ります! お名前は?」
 名前。暗部である以上本名を明かすことはできない。適当な名前を、と思案しているとまたしても篳篥のケースが目に留まる。昨日もそうだったが、地味な割には随分自己主張の激しい箱だ。
「あー、ガガクです」
 我ながら安直なような気がしないでもない。
「ガガクさん、ですね。このお礼は後日必ず!」
 もう一度頭を下げて玄関から飛び出さんばかりの『イルカ先生』のシャツの裾を摘むと、勢いもあってか派手につんのめった。
「な、何でしょうか?」
 声を荒げこそしなかったものの、多分憤っている。顔に「早く仕事へ行かねば」と大きく書いてある。分かりやすい人だ。相当急いでいる彼には悪いのだけど、このままだと彼は昼間でご飯を食いはぐれる気がする。ひょろひょろの拳骨じゃ子供達もむくれるだろう。
 冷蔵庫から食パンとハムとチーズを出してぽんぽんと載せただけのサンドイッチをラップに包んで押しつけたところで、どうしてこんなにお節介を焼いているのかと疑問に感じたが、まあいい。ナルトを育ててくれている恩返しということで。
「歩きながらでもいいから食べてって。気をつけていってらっしゃい」
 『イルカ先生』は包みをじっと見つめるとほんのり頬を染めて、やがてにへらと嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます。いってきます」
 心の底からの感謝を受けるなんていつ以来だろう。暗部での任務は、火影からの労いで終了することが多い。依頼人と顔を合わせることの方が少ないのだ。
 彼の言葉と表情がまだそこにあるようで、閉じられた扉の前からしばらく動けなかった。


******


 舞い込んでくる任務の期間は長短様々だ。出先で次の命を受けることだってある。それでもその合間に与えられた僅かな休日を、体力回復と篳篥の練習に充てた。病院に強制送還された時は指の動きや呼吸法だけを繰り返す。
 部下達から「指の動きがやらしい」と不満が出たので、子供用のリコーダーを投げつけた。そのせいで暗部の待機所には最近ピープーと笛の音がひっきりなしに鳴っている。ちょっとしたブームになったようだ。仮眠室には音殺の札を貼っているので苦情もない。
 有志が集って開催されるミニコンサートのキャンディ付きチラシを無造作にポーチに突っ込んで、一人例の広場へ向かう。練習当初は冷え冷えとしていたあの場所も、静かではあるものの、春の日差しを受けて居心地の良い空間へと変貌を遂げている。
 あれから、ここで篳篥を奏でていると『イルカ先生』はたまに、大抵夕方を過ぎると現れ、無邪気にきゅうきゅうと懐いてくるようになった。この場所で人語を喋ったことはない。そして必ず眠りに落ちてしまうので、自然な流れとして毎回連れ帰っている。『イルカ先生』はいつも翌朝飛び起きて、「また!?」と項垂れる。そんな彼をまあまあと宥めて朝食を持たせて送り出しているが、そろそろ信頼の置ける医療忍に相談することを考えるべきかもしれない。篳篥に特殊な催眠効果がある可能性を思いつき調べてみても、これといった異変はなかった。
 『イルカ先生』からのお詫びは、時間が合わないために忍犬に応対を頼んでいる。携えられてくるものは酒だったり手作りの煮物だったりで、後者は任務の帰還時期によってはダメにしてしまうこともあるけれど、拒まず受け取っている。彼の作った食事がいつしか里の味になった。
 この関係を何と呼ぶべきか、と思いを巡らせながら今日も篳篥を演奏を始めた。最近好んで奏でるのは里伝統の子守歌だ。素朴な音の組み合わせは篳篥の音色に良く調和していて、ここにやってくる方の『イルカ先生』はきゅいきゅいと全身で喜んでくれる。
 数回吹いても現れる気配はなかった。今日は来ないのか、と他の曲に取り掛かろうとすると、「こっち、こっちから不思議な音がしたんだってばよ!」と静かな空気を引き裂く元気な子供の声が聞こえた。
「きっと山が腹減らして鳴いてるんだって。飯やろうぜイルカ先生!」
「お前時々面白い考え方するよなぁ」
 確かに待っていたけど、まさか――――。
 目覚めている方の彼とここで遭遇するだなんて想像したこともなかった。だが、軽快に飛び跳ねるナルトに引っ張られてやって来たのは紛れもなくその『イルカ先生』で。
 彼も俺を視認すると、素っ頓狂な声を上げた。
「ガガクさん!」
 彼からしたら何故か頻繁に同衾している男に外で会うこと自体が驚きだろう。
 動揺する胸中を隠し、落ち着いて見えるようにひょいと片手を持ち上げた。
「どーも」
「先生の知り合い?」
 ナルトが胡散臭いものを眺めるような視線を寄越す。この小さな少年にとって『イルカ先生』と火影様と、行きつけのラーメン屋の主人以外の人間は警戒すべき対象だというのが淋しい。 「ああ、ちょっとな」
 拾われているとは彼も言えない。拾っているとも言えず、二人で曖昧に笑って誤魔化した。
「ふーん、まあいいや。ガガクのおっちゃん、この辺で変わった音しなかった?」
「ん、これのこと?」
 おっちゃん呼ばわりに頬は引き攣るものの、物申すつもりはない。手元の篳篥を差し出すとナルトの頭の上に疑問符がたくさん浮かんだ。『イルカ先生』が「篳篥という楽器だ」教えても「こんな小さい笛であんなに遠くまで悲しそうな音が聞こえる訳ねーもん」と聞き入れようとしない。
 篳篥の音色は空気を震わせるため、空気の条件さえ揃えばかなりの距離音色が届く。
 赤ん坊だったナルトに何回か子守歌を歌ったことがある。あー、うーとモミジのような掌を伸ばし、きゅっと指を握ってきたその力強さに感動したものだ。
 精神を集中させ、あの時腕の中で青い瞳を輝かせていた小さな赤ん坊に音を届けるために息を、魂を吹き込んだ。
 豊饒な木の葉の大地に生まれ落ちた喜びを讃える古からの曲を。
 ミナト先生とクシナさんがお腹の中のナルトにいつも歌っていたあの曲を。
 葦舌から唇を離して二人を見ると『イルカ先生』とナルトは揃ってぽかんと口を開いている。ナルトが「この音だった」とぼそっと呟いた。自分が間違っていたのが恥ずかしいらしく俯いているので、その金色の頭をぽんぽんと撫でる。方々に跳ねる髪は、触ると子供らしい猫っ毛だ。
「聴いてくれてありがとね。そうだ」
 ポーチの中に入れたままになっていたチラシを漁ると、角に市販の飴がテープで貼りつけてある。赤みがかった黄色のこの飴はどうやらオレンジ味みたいだ。テープに血液がついているのは見なかったことにする。
「これあげる。またおいで、ナルト。先生も」
「お、おうっ」
 にししと歯を剥き出しにして照れ臭そうに笑うナルトの横で、『イルカ先生』の瞳が揺れていた。まずいことになったかもしれない。
 ラーメンを食べに行くという二人を見送りつつ、頭を過ぎった予感がひたすら間違いであることを願った。


******


 『イルカ先生』の想いはとても分かりやすかった。差し入れの量が明らかに増えている。彼にとってジャガイモはポイントが高いらしく、使う頻度が増した。更にパックンに挙動不審さを追及され真っ赤になって逃げ出したらしい。
 彼はどうやら、『ナルトに優しくしたガガク』に恋をしたらしい。ナルトを受け入れている彼には『ガガク』が特別な人間に見えたのだろう。
 その気持ちに応えるつもりは可哀想だけど、ない。
 パックンの「アイツは良い人間じゃぞ」という言葉を聞き流し、貰ったおかずに込められた気持ちに見ない振りをし、告白をさりげなくかわしていたら、パックンどころか忍犬達から「薄情者」と罵られた。
 相変わらず『イルカ先生』は篳篥を吹いていると擦り寄ってきて眠るので、そうしたら連れて帰る。何も言えない彼に弁当を渡していつも通り「いってらっしゃい」と送り出す。忍犬達から「人でなし」とストライキされたので躾け直した。
 それでもめげない忍犬達は部下達に告げ口をする。部下達はミニコンサートで『モテる男は人でなし』という曲を演奏し大成功を収めたらしい。待機所でしょっちゅうピープー吹くものだから、その部屋に近寄り難くなった。
 慰霊碑で相談しようにも、多分『イルカ先生』のご両親もそこに名が刻まれているために気まずい。ミナト先生は夢見がちな一面があったから、火影岩に愚痴を零そうものなら振り落とされそうだ。
 行き場がないので、結局任務がない日はいつもの広場で楽器を演奏する以外ない。里での味方は、ここできゅうきゅうと懐いてくれる方の『イルカ先生』だけだ。
 途中、篳篥の練習を再開させたあの日に見つけた弁当屋で同じ鮭弁当を購入した。客足が増えている、いいことだ。ビニールの擦れる音を散らかしながら定位置へ腰掛ける。ただ、値段は安くなったが味が少し落ちている。もう行かないだろう。
 今日も日が傾いた頃にきゅいっと現れた彼の頭を膝に載せて、流れる黒髪を梳いた。最近は演奏をしなくてもいつでもふんふんと楽しそうだ。
「ねえ、どうしてあんなきっかけで俺のこと好きになっちゃったの?」
「きゅー?」
「こっちの先生はもっと前から俺のこと好きだったけどねぇ」
「きゅいー」
「俺は自分の心が醜くて嫌になっちゃうよ」
「きゅ?」
「皆こっちの気も知らないで責めるし」
「きゅ……」
「あ、悲しい声出さないで。こっちの話」
「きゅくぅ」
 『イルカ先生』は胸に渦巻く暗い気持ちが伝播したのか、しょんぼりと落ち込んでしまった。篳篥を奏でても鼻を少し鳴らすだけで膝から起き上がろうとせず、弱っている。浜に打ち上げられたイルカみたいだ。
 こんなことは初めてなのでどう対応したらいいのか見当がつかない。つい動物を相手にしているつもりになっていたが、そもそも彼は人間だった。
「ごめん先生。先生が嫌いな訳じゃないよ。むしろ好きというか」
「くぅ……」
「だけどさ、先生が恋をしたのは俺がナルトを普通に扱ったからでしょう? 俺はナルトが将来皆に認められればいいって願ってる。でもそれで先生が俺を捨てて他の誰かを好きになっちゃうと思うと素直に願えなくなる。俺は自分勝手で最低で、ほとほと嫌になるって話」
 また鼻だけが物悲しげに鳴る。
「一度手に入れたら手放せなくなる。でも今だって誰かに振り向かれたら、我を忘れて手をかけてしまうかもしれない」
「……」
「先生が『ガガクさん』って愛しげに呼ぶ度に、俺は居もしない『ガガク』に嫉妬する程心が狭いから」
 沈黙を守るようになった『イルカ先生』の表情を伺おうとすると、ひゅっと何かが目の端を通り過ぎて――――両頬がぺちん、と腑抜けた音を立てた。
「きゅう」
 目の前の彼は当然ながら、にへらとあの人と同じ顔で笑う。そして「貴方も笑って」と言葉にせずに強請る。
「貴方は、『イルカ先生』のスケープゴートなんだねぇ。もしかして本当にイルカなの?」
「イルカが篳篥の音色に集まったって話を波の国で耳にしたことがあるよ。周波数が合うの?」
「もう少し先延ばしにすれば未来は違ったかな。そしたら『イルカ先生』は俺自身に恋してくれたかな」
 『イルカ先生』にいくら問い掛けても返事はない。風に乗ってくる花弁を黒い瞳で追うことに忙しそうだ。そしていつしかしぱしぱと目を瞬(しばた)いたかと思ったら、いつもと同じようにころんと眠る。一房持ち上げた髪はするりと掌から逃げた。
 一番大きな忍犬のブルを呼び出して、彼の自宅に送り届けるよう命じた。匂いを辿ればすぐに分かるはずだ。
 躊躇するブルを急かし、一人自宅へ歩み出す。
 もうここに来ることはない。


******


 『イルカ先生』と『ガガク』に別れを告げることにした。忍犬達に言わせれば逃亡らしい。教育的指導。
 十分に手入れをして隅々まで調整を済ませた篳篥はケースごと、かつて父と暮らした生家の物入れに収め、封を施す。
 彼を連れ帰ることが重なり、もう一つの生活スペースとなった保管部屋は引き払い、別の場所を借りることにした。巻物の山の移動のため、新しい部屋とかつての部屋の往復を繰り返す。
 忍犬達は躾が堪えたのか手伝いはするものの、『モテる男は人でなし』の旋律を恨みがましく唱和するので帰した。今度ミニコンサートにわんわんコーラス隊として参加すると息巻いていただけあって無駄に上手いのが鼻につく。
 元の生活に戻る。『ガガク』なんて偽名の要らない暮らしに。偶然絡んだ糸が解ける、それだけのこと。
 巻物の包みを抱えてこれが最後と立ち上がり、部屋を見渡す。かつてのがらんどうで無感情な空間に還った。
 暗部の生活にしては華やかな数ヶ月だった。恋をした。恋をされた。趣味も充実。合間の任務は相変わらず容赦なかったけれど、幸福だった。
 お別れだ。薄暗いところに潜って、どんどん人を殺して、時々リコーダーを蹴飛ばす日々が待っている。
 さようなら。
 振り返らずに通い慣れた扉を閉じた。



  雅楽演奏者さんのエピソードで、
 「船の上で篳篥吹いてたらイルカがわんさか寄ってきて止められなくなった」って見かけてイルカ先生だと思いました(おしまい)
 簡単にくっつくかと思ったら結局最後までくっつきませんでした。まさかの。
 どういうことだってばよ……




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