うみのイルカは木ノ葉の隠れ里に縛られた妖怪である。
身長は八尺ほどで、常に「ぽぽぽ、ぼぼぼ」と朗らかに笑う子供達の人気者だ。
彼は木ノ葉の土地から出られないので、里に腰を落ち着け教師をしている。
ぽぽぽ、ぼぼぼ。
彼はとてもよく笑う。里の幸せを誰よりも喜んでいるのを表すように。
ぽぽぽ、ぼぼぼ。
その人好きする性格から、もう何百年もこうして人々に愛され続けていた。
「先生、かぼちゃ持っていきな!」
「せんせー本読んでー」
彼が一度道を歩けばあちこちから声が掛かる。
その全てに立ち止まり「ぽぽっ、いただきます」「ぼっ、いいぞ〜何にしようか」と細かに返答していく彼は正に生きる地蔵であった。余談だが、彼が祀られる5月26日には赤いよだれ掛けが贈られる。
イルカの人気をよく思わない者もいる。
例えば大蛇丸。
本家八尺様に似ている彼は、普通に暮らしていたにも関わらずしょっちゅうイルカと比較され嫌気が差し、里を抜けた。ハンカチを噛み締めながらの退散劇は有名である。
例えばうちはオビト。
九尾を操り木ノ葉の里の壊滅を目論んだが、その九尾がイルカと思い出話に花を咲かせてしまい野望が潰えた。グルグルキャンディを噛み締めながらの退散劇は有名である。
「イルカ先生!聞いて欲しいってばよ〜」
「ちょっとナルト、今私が先生とお喋りしてるのよ!」
今日もイルカの住む二階ぶち抜きの家にはたくさんの子供達が集まり騒がしい。それは日が傾くまで続く。
空が茜色に染まる頃、ぐずる子供を一人残らず帰路につかせたイルカは、天井の梁の片隅に声を掛けた。
「暗部さん、晩ごはんにしましょう。ぽぽ」
黒い影が微かに揺れる。
どんなに愛されていてもイルカが妖怪であるのは曲げられない事実なので、必ず暗部が一人つくことになっている。これは初代火影・千手柱間の時代からの慣わしだ。
と言っても本当に形だけなので、控える暗部は雑誌を持ち込んだり昼寝したりと過ごし方は様々だ。皆、体のいい休暇扱いしている。
音もなく、居間に男が一人姿を現した。
好き好きに行動する暗部達の中で珍しく、イルカ監視の任務を純然と遂行しているのが、この狗面の暗部である。
初めは話し掛けても反応しなかったが、今は会話こそしないものの食事を共にするまで歩み寄っている。
イルカは面をしたまま食事するこの暗部を眺めるのが好きだった。
今日の食卓はかぼちゃの煮つけと野菜肉炒め、里芋と油揚げの味噌汁だ。
向かいに座り、静かに皿の上を空にしていく暗部に、イルカはいろいろと話し掛ける。自分の元を訪れる子供に負けずとも劣らない熱心さで、その日の出来事の感想や過去の思い出を語る。表情豊かに、身振り手振りを加えて語る。
あらかた喋り尽くした後、いつもなら風呂を沸かしに向かうはずのイルカが台所に引っ込んだ。
かと思えばすぐに戻ってくる。右手に一升瓶、左手にグラスを二つ持ち、ぽぽっと悪戯に笑った。
「今日は月のいい夜ですから、不思議な嘘の話をしましょう」
そう言って暗部に無理矢理グラスを押しつける。
男は流されるままにグラスを持たされ、酒を注がれた。口をつけようとはしない。
イルカは咎めることもせずさっさと手酌で二、三杯煽ると酒臭い息と一緒に言葉をこぼした。
「嘘の話ですから、そうですね。オレが妖怪ではなく人間だったってことにしましょう。
社会がこんなに平和でなく、戦争がある世界」
長い夜が始まる。
「木ノ葉の里は何度も危機に遭遇します。九尾が暴れて若きリーダーや優秀な忍びを失い、やっと復興したかと思いきや今度は里を愛する老人を失う。
ぽぽぽ、嘘の世界ですから好き勝手言いますよ。
疲弊した里はそれでも蘇ろうとしますが、人々の心の中は少しずつくすんでいきました」
こんな風に、とイルカは白く濁った酒を掲げて見せた。男の視線の方向は分からない。イルカは構わず続けた。
「人間のオレは、忍者の先生です。変わりません。ただ身長はずっと低い方がいいです。男の恋人がいるってことにしたいので、このサイズだといろいろねぇ」
ぼぼぼぼっと豪快に声を上げ、イルカは掲げたグラスを水のように飲んだ。
「恋人は優秀で綺麗な人です。嘘だからいいでしょう、とことん理想で」
「オレと恋人は慎ましく暮らします。二人で肩を寄せあい、戦いが仕事な彼と育てるのが仕事なオレとで平和の訪れを語り合うんです。セックスもしますよ恋人ですから。ぽっ」
暗部の男は胡座の中心で酒の注がれたコップを揺らしている。
下ネタに一切反応しないので、イルカは唇を少し尖らせた。
「ただね、オレ達が幸せでも世の中はどんどんくすむんです。戦いは激しくなるばかり。気づいた時には、木ノ葉の里には一つの宗教団体が台頭していました。
皆希望が欲しかったんです。弱かったんです。……だからって、仕方のないことだ、とは思いませんがね。
やがて発言力を持った宗教団体は五代目火影様を無実の罪で追放すると、自らの団体から六代目火影を立てました」
イルカは六代目、という言葉を吐き棄てるように語気強く言った。
「六代目……の背後の宗教団体は言いました。
『この里で最も強く、最も美しい戦いの象徴を処刑すれば平和が訪れるだろう』と。
嘘の世界ですから、と、オレは恋人をハイスペックにし過ぎました。
木ノ葉の里で最も強く美しいのは、オレの恋人です。力の強さは誰かに劣っても、彼は心の強い人ですから」
「オレは彼に里から逃げるよう言いました。でも彼は拒みました。
『子供達がいます。置いてはいけない。貴方もそうでしょう?』
彼は宗教に抗い続ける子供達を守るために処刑されました。
世界が平和になったかって? んな訳ないでしょう」
問われてもないのに勝手に答えては鼻で笑う。イルカは一人で空虚なやり取りをしつつ、空の瓶からグラスに空気を注いでは、喉に流し込んだ。
「恋人を奪われたオレは恋人の心臓を埋め込まれ、ひたすら人体実験に使われます。
彼らは『時空間忍術』の、『時』を手中に収めようとしていたのです。
結果だけ言えば成功しましたよ。
ただし戻れませんでした。
木ノ葉の里が成り立つ前、集落形成のもっと前にオレは投げ出されました」
嘘の話という前提を忘れたようにイルカはぼやく。
胸の辺りを何度も突いては、ぽぽっと力なく笑いを零した。
「その頃には体も実験に耐えうるよう改造され、人類とかけ離れた姿になっていました。死のうとしても死ねない体に。
恋人がオレを見ても気づかないほど醜く成り果てました。
もっとね、快活に笑えたんですよ。今はぽぽぽ、ですけど。
でもまあ、死ねないなら生きなきゃいけないんで頑張りました」
この家の真裏は山になっている。夜行性の鳥がギャアギャアと不気味に鳴き、飛び立つ音がした。
時計の針は無感情に進む。
「老人に出会いました。凄まじい力と、怪しい性癖の持ち主でしたがそこで意外な出会いをしました。オレは親の仇である九尾と友達になったんです。
また、ある一族がこの土地を拠点に生活を築くと言っていたので手伝いました。子供相手に忍術を教えたりなんかしてたらオレはまた『イルカ先生』になったんです。
『イルカ先生』と呼ばれ、オレは決意しました。
過去を変えてやろうと。
覚えている限りの歴史を書き出し、軋轢の元になりそうな場所に駆けていっては是正しました。
未来の実験の影響か木ノ葉の土地からは出られませんでしたが、できる限りのことをしました。
今思えばアクロバティックな牧師の真似事ですね」
イルカは大きな背を丸めて、膝を抱えた。どんなに身を縮こませても小さくはなれない、悲しい妖怪がそこにいた。
「時は流れ、オレの生まれた時代になりました。
うみのの家には娘が生まれました。ケーキ屋さんになりたいそうです。
オレの両親は彼女をそれはそれは大切にしています。オレを『イルカ先生』と呼びます。
名字が同じだね、と幼い頃の父はこの家に来て言いました。
父と母のことは、やはり特別気にかけました。
そして二人が結婚した時に気づいたんです」
言葉を切り、すぅっとイルカは息を吸い、ぶつけるように叫んだ。
「父親の心境やんけッッッ」
突然の大声にビリビリと空気が揺れる。裏山の鳥が一度に飛び立つ。
それでも暗部は平然と座っていた。
「ぽぽっ、暗部さん驚かないんですね。つまんないの」
イルカは「つまらない」と言いながら、何故だか嬉しそうだった。
「彼と彼女はもうオレの父と母ではありませんでした。
成長を見守ってきた、木ノ葉の子供達の中の二人です。平等に可愛がってきた中の二人に過ぎなかったんです。
こうして、オレは何者でもなくなりました。
その時初めてオレは他人にこれまでのことを打ち明けました。三代目火影様です」
鳥があらかた飛び立ち、この夜にはイルカの声しか存在しなくなった。
イルカの声色が暗くなれば、闇も深まる。
「だけど尊敬してやまなかった三代目も、オレが平等に可愛がってきた中の一人でした。
オレを抱き締めて火影様は泣いてくれました。
嬉しかったけど、それで終わりです。
あとオレは、どう頑張っても世界に絶望してしまうオビトさんの起こした九尾の襲撃を、六道仙人の獣姦趣味の話題で収めまた暇になりました」
ぽぽっとイルカは笑い声を上げた。
「オレの本当の父ちゃんと母ちゃんは、獣姦の話してりゃ死ななかったんですよ」
ぽ、ぽぽっ。
酒と長話で掠れ、切れ切れの声だ。
「その嘘の話で」
イルカの笑いを塞き止めたのは、暗部の男の静かな問い掛けだった。
「あんたの嘘みたいにハイスペックな恋人は生まれてこなかった訳?」
「生まれましたよ」
ぽっ。
暗部の男の質問に、イルカは極めて平坦に答えた。
「けど、一度も来てくれませんでした。寄りつかなかったんです。早熟な子でしたから」
イルカの膝を抱える力が強くなる。幼子ならへし折れてしまいそうなくらいに。
そしてぽつり、と悲しそうに言葉を落とした。
「それか、オレが醜くなったからかもしれませんね」
夜の音が暗部の男の耳を傷めた。
「もちろん彼がオレを知ってるはずありません。
だって彼の今は『今』で、オレと出会う云々以前の問題なんですから。
分かってます。分かってる。
でもオレはこの先、知り合いが死んでいく世界で何を拠り所に生きればいい?
彼がオレじゃない人間と歩む人生を眺めてろって?
三代目は答えてくれなかった。あんたは答えろよ!
カカシさん!」
名を呼ばれ、暗部の男は面に手を掛けたものの、また手を膝に戻してしまった。
イルカは肩で息をする。
ぽぽぽっ、ぼぼっ。
呼吸に合わせて声が漏れた。
子供達の童歌にこんな一節がある。
「八尺イルカの笑い声 泣いてもおんなじ ぼぼぼ ぽぽぽ」
イルカは今、涙なく泣いていた。
「顔も見せてくれないんですね?」
心を貫かれ泣いていた。
イルカはおんおんとは泣けない。低く地を這うように「ぼぼぼ」と泣く。
助けられない人がいたらその人を想った「ぼぼぼ」が山に反射して響く。
里の人々は、イルカが悲しい日を山の声で判断する。
今宵は一際悲痛な「ぼぼぼ」が里に広がった。
だが、切れ切れの笑い同様に狗面の暗部はそれも止めた。
たった一言で。
負けたよ、とでも言いたげな口調だった。
「野菜肉炒めの野菜と肉の比率が八対二って前から突っ込みたかったんだよね」
前から?
イルカの記憶では、このカカシに野菜肉炒めを作ったのは初めてだ。
この一言を皮切りに今まで静かだったのが嘘のようにポンポン罵声のノックを打たれた。
「ラーメン食べ過ぎ」
「コンビニ行き過ぎ」
「台風後、真っ先に一楽再建させてるの知ってるんだから」
「いつも何にでもマヨネーズかけるなって、言ってたでしょ。メタボになるよ」
ここまで言われたら最早疑う余地はなかった。いつも口うるさく、それこそ母のようにイルカを叱っていた愛しい人。
「カカシさん……?」
記憶の共有ができている理由は分からない。
けれどもこの物言いは、『イルカが曲げなかった世界』のカカシだ。
見た目は記憶より若干細いが、中身はイルカが愛した“あの”カカシだ。
間違えなんてしない。ずっと、それこそ何百年も――――
「もう少し待てばよかったのに」
「ぼぼ!?」
随分無遠慮な物言いに、泣いた妖怪だってカチンとくる。それでもカカシはイルカの扱いを心得ていた。
「怒んないの。
俺だって我慢してたよ?
はたけカカシとしてイルカに会えるのはこの体だけなんだから、最初から会いたかった。
寂しがりの癖に一人ぼっちで長年頑張ってたあんたを褒めてあげたかった。
けどあんた泣くんだもん。
『皆と同じ時間を生きたい』って。
俺も待ったよ。
何百年も、誰にも気づかれない名無しの霊体として。
何が悲しくて父さんと母さんのセックス心待ちにしなきゃいけないのとか思ったけど、ちゃんと受精卵に飛び込んだ」
カカシが面を外した。
記憶よりもまだ少し若い、出会う前の彼だった。
「ぽ……」
「身長はそんなには伸びなかったけどね」
八尺の巨体が、青年の胸に飛び込んだ。
ぽぽぽぽ、ぽぽぽ。
山から八尺イルカの声が響く。
嬉しくてたまらないという歓喜の声が里に広がり、人々は彼の幸せを喜び「よかったねぇ」と口々に安堵する。
二階ぶち抜きの家のちゃぶ台を挟んで、イルカはカカシにたくさん話をするようにせがんだ。
嘘の話は嫌だ、ほんとの話がいいと何度もねだった。
カカシの言ったほんとの話は心臓がどうとか、それこそ荒唐無稽だったけれど、イルカは全部信じて飲み込んだ。
お互いの何百年を答え合わせするように何度も同じ話を繰り返した。
そうして話す内に朝日がのぼり、二人は酒瓶を枕に眠りにつく。
すんすん鼻を鳴らしたイルカがぽぽっと小さくゲップをして、このお話はおしまい。