水道トラブル5000円

「先生来週誕生日だね」
 恋人が告げた一言に、イルカは露骨に顔をしかめた。
 恋人は男という字が服を着て歩いているようなイルカの精悍な顔立ちを「かわいい」とよく表現するが、その言葉すら投げかけようとしたら臍を曲げてしまうくらい、変な顔だ。
 それでも恋人はニコニコと眺めて、「ね」と首を傾げる。
 イルカはそんな恋人の方がよっぽどかわいらしいと思っている。
 要は、バカップルだ。
 バカップルはしばし見つめ合ってお互いを「かわいいなぁ」だの「撫でたいなぁ」だの思考を巡らせていたが、はたと会話の根源を思い出してまた元の表情に戻った。
 イルカは不機嫌な表情を作って、「誕生日の話は、いいです」とぼそぼそと口の中だけで呟く。
 耳のいい恋人に聞こえていることは、勿論見越している。
 恋人は二人の隙間を少しだけ詰めて、「どうして?」と問い掛けた。
 この恋人は距離を縮めるのがやけに上手い。それも上忍の実力かと思うと気に入らなくて、イルカは顔をしかめるばかりではなくぶーたれていることをアピールするために唇を突き出した。
「そんな顔しないの。ちゅーしたくなるでしょ」
 完全に操縦法を把握されている。そう言われては、そういう接触に不慣れなイルカは唇をにゅくんと引っ込めざるを得ない。
「どうして誕生日の話嫌いなの?」
 気乗りはしないけれど、どうせ吐かされてしまうのが目に見えている。
 だからイルカは素直に「いい思い出がないから」と答えた。
 一度頭を吐き出すと、その後押し寄せるのが止まらない。
 どわどわどわっと、一本の支えをなくして崩れたジェンガのように言葉が落下する。
「オレがまだ忍術も碌に使えないくらい小さい頃、御馳走作ってた母の隣で水道管が爆発して水圧で屋根が抜けた」
「それはすごいね。噴水みたい」
「印を覚え出した頃の誕生日には両親に忍務が入るし」
「この時期やけに忙しいよね」
「山でイノシシ用の落とし穴に落ちて帰れなくなるし」
「あー、下忍になりたての子が掘るから」
「火影様の特注のカツラでフリスビーしてたらどっかから来た犬がくわえて逃げちゃうし」
「あのカツラすぐやめたのそのせいかー」
 普段は聞き上手な恋人が、今日はやけにズレた相槌ばかりを打つ。
 大人の誕生日の寂しいだけの記憶と相まって、半ば叩きつけるようにイルカは叫んだ。
「大人になったら誕生日なんてそもそもなかったみたいに、残業ばっかりだ!」
「いつも頑張ってて、偉いね」
 吐露している内に、気づけば距離を詰めるのが得意な恋人の腕の中に抱き込まれていた。
「でもさイルカ先生、思い出してみて。悪いことばっかりじゃなくて、その後いいこといっぱいあったでしょう?」
 ゆっくりと沁みる声で囁かれて、寂しさでコーティングされた誕生日の思い出が溶けだしていく。
「……水道管爆発したから、母ちゃんが隣の家に水道借りに行ったら、そっちの皆も一緒にオレの誕生日祝ってくれた」
「うん。お父さんとお母さん忍務に出かけた後は? ちゃんと帰ってきたよね?」
「いつもより泥だらけで、急いで帰ってきて、父ちゃんは肩車してくれた。約束破った時だけしてくれるのが好きだった……。母ちゃんは疲れてるはずなのに商店街駆けずり回って、美味しいもの山ほど作ってくれた。ケーキも」
「うん」
「イノシシの穴に落ちてたイノシシ食べたら背が伸びた」
「ボロボロになって取り返したら、火影様は叱らずに大きい手で頭掴んで褒めてくれた」
 言葉に載せる度に蘇る。冷え切った思い出なんてほんの一角で、その記憶はちゃんと、ぬくもりを持っていた。
 それでも誰からも祝ってもらえなくなった大人の誕生日は思い出したくない。それでも唇は意に反してつらつらと語り続ける。
「残業から疲れて帰って、ちょっと贅沢してコンビニでビール買おうとして――――あ」
 だが記憶の復元を拒否しようとする前に、まだ敬語で話していた頃の恋人の姿が浮かび上がった。
 あのう、とかそのう、とか、十五分程聞かされた。イライラしたのまで覚えている。
「ごめん、オレ」
「ううん、いいよ、言って?」
 やっと踏ん切りがついたのか、その人は普段丸めている背をピンと伸ばして、どういうわけか選手宣誓のように朗々と愛の言葉を告げたのだった。
「……思いがけない人から告白されて」
 アホらしい、と一蹴すればよかったのに、その日は胸がざわめいた。
 もしかしたら月のせいだったのかもしれない。疲れのせいだったのかもしれない。
 それでもその時のイルカは、そう判断しなかった。
「喜んでる自分がいて、頷いた」
「喜んでくれてたんだー、よかった」
 恋人は、頷いた瞬間と同じようにホッと息をついて表情を綻ばせた。
 あの時はまだ口布をしたばかりだったけれど、それでも柔らかく微笑む人だと感心したものだ。
 素顔を曝け出している今の恋人は、イルカを抱き込んだまま前後にゆらゆら揺り籠のように揺れると、歌うように語るのだった。
「今年の誕生日は前日に水道管の点検もしてもらうし、俺の忍務もないし、山には行かせないし、火影様の笠は保管しといてもらうし、そもそもお休みだから残業もないはずだよ。いいことばっかりだといいんだけどね」
 この腕の中にいるだけで幸せだ、なんて乙女のようなことは、男という文字に褌と法被を着せて歩いているようなイルカは言わない。
 それでも恋人は、「かわいいなあ」と抱き込む力を強くした。


 誕生日当日、手作りケーキとイノシシ鍋と立派な指輪と婚姻届を恋人に一度に差し出されたイルカはあまりの唐突さに驚いて仰け反ってバランスを崩し、腰をしこたま強打した。
 それでもそんな彼をひょいと抱え上げ、「プロポーズ当日に恋人を堂々とお姫様抱っこできるって、イルカ先生には悪いけどいいもんですね」としゃあしゃあと言ってのけた恋人に白旗を上げ、薬指にリングをはめた手で婚姻届にサインしたそうな。



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