教室の後方で歓声が上がった。スカートの裾を気にすることなく、机に上る生徒まで現れる。
「ちょっとちょっと、順番……っ」
テンゾウ子の必死の懇願も何十本もの手と何百語もの言葉に埋もれてしまう。
皆の中心でもみくちゃにされるテンゾウ子の手に、水仙色のチーフがあることをイルカは知っていた。
誰もが憧れる、この名門木ノ葉女子学園の生徒会長にだけ与えられる水仙色。
特に今年度の生徒会長は、文武両道・容姿端麗を地で行く、あのはたけカカシ先輩だ。
卒業式でも溜息の出るような答辞を述べ、体育館中を涙と嗚咽で一杯にした。
近づくことさえ躊躇しているイルカは、どんなに望んでも、あのチーフを貰うことなんてできない。
皆と同じようにあの輪に入っていけたらどんなに楽だろう。
ミーハーに憧れているだけなら、どんなに楽だったろう。
一度触れるだけで満足なんてできない。
イルカは、叶うのならばテンゾウ子を殴りつけてでもそのチーフを自分のものにしたかった。
そしてそんな澱んだことを願う自分が嫌になって、一人自席でうなだれる。
先輩に話しかける勇気もない癖に欲望だけはしっかり持っていて、その醜さに打ちのめされてしまいそうだ。
そっと後方を伺うと、誰一人イルカのことを気にかけず、チーフを一目見ようと皆夢中になっている。
抜け出しても気づかれなさそうだ。
万が一見咎められても不自然にならないように、鞄から桃色のタオルハンカチを取り出して、トイレに向かうのを装い教室を出た。
走るつもりなんてなかったのに、勝手に歩調が速くなる。
校内サンダルが廊下の床を大きく打つ音がどこか遠くに聞こえた。
イルカは陸上部で、長距離を専門にしている。
そのイルカが大きなストライド走法で駆けるものだから、廊下の端から端までなんてすぐだった。
階段を昇り降りするなんて考えはどこかに消えている。
ただ、誰もいない場所に逃げ込みたかった。
水仙色のチーフに群がる友人達の喧騒も、卒業という慣れ親しんだ学び舎からの旅立ちを悲しむ先輩達の泣き声も聞こえない場所に。
悲劇の主人公ぶっても誰も笑わない場所に。
とにかく手近にあるドアノブを無差別に押した。
どの扉もきちんと鍵が掛かっていて、当然開かない。
金属がぶつかる音が虚しく廊下に響くだけだ。
それがまた惨めで、体の底の方から涙が汲み上げられてくる。
このまま廊下の隅っこで、恥も外聞もなく大泣きしてしまいそうだ。
一粒でも涙が零れれば、その後正気を保てる自信がない。
お願い、どこでもいいから開いて!
悲痛にも聞こえる心の叫びが届いたのか、力を込めて押した扉の一つが、呆気なくイルカを取り込んだ。
勢いに負け、前につんのめる。
何とか目の前の壁のようなものに手をついて転ぶのを堪える。
入ってすぐ壁? と体を離すと、それは壁ではなく木製の本棚だった。
イルカが飛び込んだのは薄暗く、中身もぎっしり詰まった本棚がいくつも立ち並ぶ、黴臭さ漂う文書室だった。
勿論入ったのは初めてだ。入ろうと思ったこともないし、きっと生徒は立ち入り禁止だ。
事務員さん、閉め忘れたのかな。
あんなに開いてと願ったにもかかわらず、実際に開いていると少し呆けてしまう。何はともあれ、望み通りの部屋に入り込めた。追い出されないようにしっかり中から鍵を掛けて、本棚に背中を預ける。
棚と棚との間隔が狭くて、本来は狭い部屋が持つ独特の安心感が、そのまま隙間にしゃがみ込んだイルカを包み込む。スカートに皺が寄ろうが、そんなこと気にならなかった。
狭くて暗い。この部屋は母体に似ている。
学校という共同生活の場に不釣り合いな孤独の与える安らぎが、ふつりとイルカのダムを決壊させた。
それはもうみっともなく、はしたなく。
時に喉を引き攣らせて。
トイレに行くカモフラージュのために持ち出した桃色のタオルハンカチはその色を一段も二段も濃くして、既に端からぽたぽたと水滴を垂らしている。
役に立たないので横によけた。
浮いた手はそのまま膝を抱える。
触れられなかった人の代わりに自分の膝を力を込めて抱く。
好きでした。
見てるだけです。
遠くから眺めているだけで幸せ、なんて生易しい気持ちではなかったんです。
もっとどろどろしていました。
こんな自分を見られるのが嫌で、近づけませんでした。
全部自己満足なんです。
全部自分のことしか考えてないんです。
こんなに恋が醜いとは知りませんでした。
それでも好きなんです。
「カカシ、せんぱい……っ」
通常の友人同士の会話でさえ、呼ぶのが憚られたその名前をここでなら。
絞り出したその声は本の山に吸い込まれるだけのはずだったのに。
「はあい?」
それは壇上の凛とした声色ではなかったけれど。
いつも耳が追っていた。
聞き間違えようもない。
歪にひしゃげる世界を、目元をまとめてをごしごし擦ることで正常化する。
そこには紛うことなき銀(しろがね)の。
キラキラして綺麗だな、先輩の瞳の色はこんなに深い色をしていたんだ。
そんな風に思わず見惚れて、いざ自分を省みてハッとする。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔、今は目の擦り過ぎで赤くなっているだろう。
それに、さっきまでは怪獣のようにおんおん喚いていた。
ドアの鍵は閉めた。つまり、ずっと。
「ひ」
「ひ?」
整った顔をふっと傾げる。それすらドラマのワンシーンのようだ。
だけど。
「ひぎゃああああああっっっっ」
タオルで顔を覆おうにも、もうぐっしょりと湿っていて用途を果たさない。
掌では隠し切れない。
何か、何か隠せるもの。
パニックに陥った頭を俯かせて、目に入った布を咄嗟に持ち上げて、人生で一番酷い顔を包み込んだ。
畏れ多くも、失礼なことを懇願しようとした。
お願いします、一人にしてください。こんな顔見ないでください。
しかし、それを告げる前に。
「……絶景」
低く地を這うような声だった。
腰に響く色っぽさに言葉の意味を考える前に思考が止まる。
「へ?」
顔に布を押し付けているために、くぐもった間抜けな声しか出なかった。
「涙目だったかと思えばかわいい顔でこっち見るし、今こんなあられもない……誘ってるんだよね?」
「あ、あられ?」
「白生地に赤いリボン、新鮮」
すりっと股間を撫でられて、イルカは初めて状況を把握した。
崩れた顔を覆っているのは冬用の厚手のスカートで、すなわち、丸出し。
羞恥で血液が一気に上昇した。そして声も。しかし。
「ひぎゅっむっ」
「叫んでるのも可愛いけど、もっとイイ声聞かせて?」
スカートの布を口の中に押し込まれる。
そして指が、白生地の隙間に。
「むーーーっっっ!!」
捕えられた獲物のくぐもった悲鳴は、残念ながら水仙色のチーフに群がる友人達の喧騒と、卒業という慣れ親しんだ学び舎からの旅立ちを悲しむ先輩達の泣き声にかき消された。
すみませんチーフ渡したりする短いおまけはまた今度
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